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びりびりと、一瞬この身の表面を走ったのは、怖気。張り詰めた空気が、剥き出 しの
肌に突き刺さってくる。
吐息一つ気取られてはならぬ。息を詰め、ただ身を隠せと、本能がしきりに声を高め
る。
「聞きしに勝る低能ぶり、恐れ入ったよ、《第一》の諸君」
最初に切り出したのは、恐らくはサルトだった。場に響いた声は、それまでの彼から判
断するには余りにも低く、凄味に満ちていて、まるで別人のようだった。
(第一……)
耳をそばだてていて、ふと思い出した事がある。《フィンデガルデ》内の、その編制の
事だ。
「九人がかりで教育係一人にしてやられるとは、呆れを通り越して笑えるね」
《フィンデガルデ》は、四つの騎士団によって成り立っている。第一・第二・第三・第四
と、順番に序数を冠した各々の騎士団は、今、それぞれ別の地域に派遣されていた。
「貴様、《赤目》ごときが我らを愚弄するか!」
第一騎士団は王都に駐在し、王国の中心たる《東方》地域を監視、統御する役目を負
っている。常時であれば王の親衛隊をも兼務する彼らは、そのほとんどが上流貴族で
占められていた。
「君たちは、言葉に詰まると直ぐそれだねぇ。同じ《フィンデガルデ》に属する時点で、立
場は対等なはずなんだけど」
呆れたように言うサルトの声に、シドッグの笑声が重なった。九人の男たちは揃って熱
り立つ。だがやはり勝ち目はないと分かるのか、自分たちから手を出す事はなかった。
察するに、シドッグとサルトの二人は、第一騎士団には所属していない。第二か第三
か、はたまた第四か。いずれにせよ、彼らの直属の上司にあたる騎士団長は、随分と
好事家のようだった。
王国軍の精鋭たる《フィンデガルデ》は、そもそもエリート教育を受けた貴族たちの集
まりだ。そこに貧民の象徴たる《赤目》の人間を投入するなど、正気の沙汰ではない。
《フィンデガルデ》の成り立ちそのものを蔑ろにしている。
今、両者の間にあるのは、明らかに敵対心だった。《フィンデガルデ》は、ことごとく義
兄シャルドゴールの手中にあるとは言え、内部で統制がとれている訳ではないらしい。
「ジオ=フォード一人にやられただけじゃない。こうして第二王子殿下の追随まで許すと
は、つくづく信じがたいな」
突然名を出され、九対もの鋭い視線を向けられて、トラヴィヌスは身を竦ませた。
同僚の――否、元同僚の名を、姓を付けて他人行儀に呼んだのは、シドッグだった。
彼の口から放たれる言葉の一つ一つが、ナシルと共にあった頃とはまるで違ってい
た。価値観も、見つめる先も、何一つだって共有するものがなかったかのように、その
整った声は余りにも冷ややかに世界を突き放す。
「まぁ、いい。とりあえずは任務終了だ。ナシラウス王子とジオ=フォードの連行を委任す
る」
猛り狂っていた感情は、いつの間にか胸の奥底のほうに沈み込んでしまっていた。トラ
ヴィヌスは力の抜け落ちた目で、遠い地べたに残された二つの人影を顧みる。
折からの風に、蜂蜜色の髪が宙に浮いてふわふわと、静かに揺れるのが見えた。
(ナシルは、シドッグの変貌を目の当たりにしたのだろうか……)
もしそうなら、それはどんなにか、絶望に似た感情であっただろう。
弟とシドッグの間にあったものを、第三者である自分は推して量る以外に知る方 法は
ない。しかしそれは、切っても切れぬものなのだと思っていた。そう、固く信じていた。
シドッグと共にあった時のナシルは、よく笑った。だが今は、いつもの元気など幻であ
ったかのように、気を失って地面に倒れ伏している。
ナシルと共にあった時のシドッグも、また、よく笑った。だが今は、以前の主君には背
を向け、真実同僚であった者たちと、剣呑な話に花を咲かせている。
今二人の間にあるのは、永遠とも呼べる距離だ。何人たりとも紡ぐことの出来ぬ、心
の隔絶だ。
(ああ……)
堪えきれず、目を閉じる。
遠い。余りにも、遠い。
祈れば届くのだろうか。泣き叫べば、届くのだろうか。この、願いが。
――と。
不意に、一陣の風がトラヴィヌスの頬を叩き、耳元を鋭く吹き抜けた。
ざあっと、地上の土をあまねく掻き集めるかのように激しく、荒々しく轟然と。それはま
るで、気紛れな風精が踊り狂い、乱舞するかのごとく。
「……まさか!」
後方から上がったシドッグの鋭い声に、はっと目を開く。
未だ立つ事のできないトラヴィヌスの横を、さっと二つの人影が――シドッグとサルトが
走り抜けるより早く、その、信じられない出来事は起こった。
それは旋風と、そう呼ぶ以外の表現の仕方を、トラヴィヌスは知らない。
前触れなく目の前に発生した烈風は、地面すれすれにあって渦のように土埃を巻き込
み、そしてあろうことか、眠ったままのナシルとジオの身体を、空中に押し上げていた。
トラヴィヌスは息を呑み、目を疑う。
「魔法か。……しかも風の!」
魔法に精通しないトラヴィヌスには、目の前に一足飛びで現れ、呻くように洩らしたサ
ルトの言葉の、その意味の深奥は分からない。
「どけ、《第二》! 我らがやる!」
二人の身柄を確保しようと手を伸ばしたシドッグを、そしてまた、何かやるつもりだった
のか屈み込んでいたサルトを押しのけるようにして、巨大な水の奔流が走った。
瞬間、まるで高波が岩に当たって砕けるような凄まじい轟音が、場に響き渡る。
人の体を浮き上がらせる程の風圧である。水撃のうち幾つかは旋風に巻き込まれ、
巨大な飛沫と化して散開。そして残りはジオの脇腹に直撃し、逆にその体を押し上げ
た。
「バカが。魔法をぶっ放す以外取り柄のない、能無しが!」
素早く周囲に目を走らせるシドッグの横で、サルトは舌打ちしながら辛辣に断じる。
そして直後。彼の唇から何やら早口の言葉が紡がれ始めるのを、トラヴィヌスの耳は
しかと捉えていた。
異国の言葉か、古代の言語か。ラディンス王国に程近い幾つかの国と地方の言語を
操るトラヴィヌスですら、聞き覚えがない。
(もしかして、《呪文》か?)
魔法発動に必須とされる、神秘の言葉。精霊に意思を伝え、不思議の力を具現する、
その動因となる唱文。
答えはすぐさま示された。
言い切った後、先刻の魔法で所々水たまりの出来た地面に、叩き付けるように手を置
くサルト。その指先から幾ばくも離れぬ地点から、何か緑色に光る物が顔を出した。
それは《芽》だった。春先、王宮の花壇で見かけられる、正に生きた植物と同じ姿。
地面を突き破るようにして現れた幼葉は、息を呑むトラヴィヌスの視線の先で、瞬く間
に丈高く成長した。そして、植物の蔓(つる)のような姿をしたそれは、雲がかる空の高
みに浮かび上がっていた二人の体へと、一気にその先端を伸ばす。
「見つけた……!」
異様な植物まがいの動きに気を取られていたトラヴィヌスは、ふと耳元に落ちてきた声
に、我を取り戻した。
シドッグの声――はっと瞬かせたその目の端を、何か銀色の閃光が横切る。それが
放たれた短剣だと気付いたのは、シドッグがそれを追って走り始めてからだった。銀光
は、腰元から瞬時に長剣を抜き放った彼を、まるで誘(いざな)うように空中を滑走す
る。
蠢くように増え始めた雲の下。張り上げた声がようやく届く程の距離を正しく一直線に
飛んだ短剣は、そこに並び立っていたあばら屋の上、一見何も見当たらぬその屋根上
の虚空に向かい、吸い込まれていった。
しかしトラヴィヌスの目には、その屋根上から瞬く間に姿を消した、濃緑色をした衣の
翻りが見えていた。
(……誰か、あそこに潜んでいる!)
人も形(なり)も分からない。だがその者こそが、ナシルを、そしてジオを掬い上げる魔
法を起こした張本人だという事は、すぐに知れた。
「シドッグ! 王子様のほうは魔法じゃムリだ! 手で取り返して!」
魔法の蔓で捉えきれなかったらしいナシルの体が、まるで引っ張られるようにその屋
根のほうへと飛んだからだ。
視界の端に、蔓で全身を絡め取られ、地上に戻されてしまったジオの姿が映ってい
た。その顔が、病人のように血の気を失い、青白い。だがトラヴィヌスは動けない。この
足は、この体は、未だに立つ事すら出来やしない!
遠ざかるシドッグの背中に叫びかけた後、サルトは再び呪文の詠唱に転じていた。
二人の動きはまるで流れるように洗練されていて、無駄がなく滑らかだった。目まぐる
しく変わる状況をものともせず、我を失う隙など微塵もありはしない。
今や、自分も護衛兵たちも、さらには《フィンデガルデ》第一騎士団の面々さえ、呆然と
見守るだけの傍観者へと身を堕としていた。
シドッグの跳躍力でも、よもや三階を超える程の高さには到達すまい。一瞬胸に生じ
た侮りも、二人の連携の前でははかなく潰えた。
(……まさか、嘘だろう!?)
それが起こった時、トラヴィヌスはまず己の目の疲労を疑った。
あろうことか、何者かが潜む屋上とシドッグとをつなぐ道が、瞬く間に出来上がったの
だ!
あばら屋よりこちら側の地面が、まるで巨人が身を起こすかのように、ぐぐっと隆起し
たように見えたのだが。いや、それ以外にない。それ以外に、あのように不可思議な坂
道が生じる理由がない事は、分かり切っている。そう、分かっているの だが。
(とても、信じられない……)
後方に控える、目を見開いたまま硬直してしまった鑑賞者たちなどお構いなしに、シド
ッグは出来たての坂道を当然のごとく駆け上がっていく。
そして――刃の打ち合う甲高い音が、辺りに響き渡った。
戦いが始まって、ようやく潜伏していた人間の全身が見えた。その身を包む濃緑のロ
ーブは、重苦しい見た目よりは意外に軽い作りらしい。殺到する銀の閃光を身軽に躱し
ていく様は、まるで小屋の上にたなびく凛々しい軍旗のように思われ た。
過ぎゆく雲に、時折陰差す陽光の下、徐々に激しさを増す剣戟は、遠目にはただ、宙
を飛び交う銀の火花に見えた。否、近場でもその剣筋は、この目では追いきれなかった
だろう。武術の鍛錬よりは学問の修得のほうに力を注いできた自分は、そういった眼力
に欠ける所がある。
――何者なのだろう。
《フィンデガルデ》に真っ向から挑むなど、正気とは思えない。怒りに駆られて刃 を向
けた自分だからこそ、その無謀さはよく分かる。ジオですら、一時は勝利を手に入れた
ようだが、結局はあのように地面に伏す結果に終わってしまっているのだ。
けれど、願わずにはいられない。一縷の望みでも、縋らずにはいられない。
《赤目》の若者は、弟を助ける行為を「反逆幇助」と呼んだ。王不在の現状で「反逆」と
は不自然な罪名だ、しかしだからこそ分かる。義兄シャルドゴールが、誰か王家に仇な
す不忠の輩とナシルとを結びつけるような、巧妙な策略を巡らせたのだと。
《裁判》にかけられた者が、五体満足で帰ってきた事など、ただの一度もない。 《裁
判》を受けるという事は、そのまま被疑者の死を意味する。
今回はすなわち――弟の死を。
ナシルだけでも。せめて弟だけでも、義兄の魔の手から逃がしたいと願う事さえ、罪に
なるのだろうか。
鋭く布を断つ音がして、濃緑色の切れ端が、掻き曇る空を舞った。息を入れる間もなく
襲い掛かる剣先を、だがその者は、ナシルを小脇に抱えているにも関わらず、巧みに
避け続ける。
遠目にも、その人間が、次第に受けの一手に回ってしまっているのが分かった。ナシ
ルを抱えたままでの勇戦である。シドッグ相手に大した力量だが、それでも捕らえられて
は意味がない。
何かないだろうか、あの者を救う術が。ナシルを逃がす方法が。
トラヴィヌスは勢いよく首を巡らせた。
呆然としたままの第一騎士団の面々が見えた。間抜け面を晒している護衛兵たちに、
自分たちがここまで騎乗してきた馬の一群。薄汚れた地面には雑草と枯れかけの木々
が僅かに生え立つのみで、離れた場所に軒を連ねるあばら屋に、人影はない。
(他に何かないか……!)
何か何かと、脳内の声は狂ったようにそれだけを繰り返した。
シドッグの剣が空を薙ぐ音が、間断なく耳を、気を急かせる。
一巡、二巡、三巡。トラヴィヌスは幾度も幾度も、周囲の景色に視線を這わせた。
そして。ふと、出し抜けに、何かと目が合った。その相手と無言で見つめ合ったトラヴィ
ヌスは、瞬間、胸に差し込んで来た一条の希望の光を感じ取る。
しかし。
「――忠告はしたつもりなんだけど。まだ、邪魔をする気なのかな?」
その冴えた声は、希望を打ち砕く冷酷な槌の如く、頭上から振り下ろされた。一気に
冷えた全身を庇う余裕もなく、煌めく刃が喉元に押し当てられる。
「そのつもりは……ない」
いつ何時でも、喉を貫ける。そんな乱暴な意思ごと、突き付けられていた。
この男たちは、本当に、憎らしいまでの隙の無さだ。こちらに、期待の一片すら抱かせ
るつもりはないらしい。
(処刑人、か)
《フィンデガルデ》を、陰でそう呼ぶ者がいる事を知っていた。敵国だけではない、それ
は王国内でも囁かれている蔑称だ。目の前の彼らは、まさしくそう呼ぶに相応しい。
だが――と、トラヴィヌスは薄く笑う。そして、気付かれぬように、そっと手を持ち上げ
た。
だが、そんな彼らでも知らないだろう。決して知りはしないだろう。
(私の愛馬が、際立って賢い馬だという事をな!)
その場で示したのは、さっと手を横に払うだけの動作。だが、それで十分だった。
後方で静かに息吹を繰り返していたその馬は、瞬間、勢いよく走り出していた。蹄鉄
が、土を蹴立てる。舞い上がる砂埃が、人間たちに降り掛かる。
さすがというべきだろう、その場で最初に動いたのは、やはりサルトだった。
トラヴィヌスは、突き付けられていた短剣が、銀の閃光と化して愛馬の背を追うのを、
目で捉えた。馬腹を貫くかに見えたその剣先は、ほぼ全身を覆い尽くした豪奢な錦織
を、僅かに切り裂いたに過ぎなかった。馬は気付いた素振りもなく、土煙だけを後ろに
従え、剣戟の繰り広げられている小屋に向かい突進を続ける。
「く……っ、シドッグ! 馬が行ったぞ!」
歯噛みと同時に、呪文の詠唱が始まった。
しかし魔法は間に合わないだろうと、トラヴィヌスは確信していた。自慢の駿馬だ、呪
文を唱え終わる頃には、もう小屋に到達している!
向かってくる馬に気を散じたか、はたまたローブの人間が何か仕掛けたのか。いずれ
にせよ、一瞬、シドッグの攻撃の手が弛んだ。その僅かな隙に、濃緑色の袖口から伸び
た細い腕が空高く掲げられ――そして、風より速く振り下ろされた。
聞こえてきたのは、凄まじい爆発音だった。板材の裂ける音、へし折れた木柱が次々
に地面に墜落する音、その混合音。
誰が予期出来たろう。恐らくはローブの者が起こした魔法で、剣戟の舞台は、あっけな
く崩壊し始めていた。見る間に崩れ落ちる足場に、シドッグがすぐさまそこを飛び離れる
のが目に映る。
内側から張り裂けるような、清々しさすら覚える程に見事な損壊の仕方だった。だがロ
ーブ姿の人間は、朦々と巻き上がる木屑の中で、崩落を繰り返す足場に、大胆にもそ
のまま立ち続けていた。挙げ句、小脇に抱えたナシルの体を持ち直すという余裕すら、
垣間見せる。
そしてその者は、疾駆してきた馬の背に、華麗なまでの身軽さで飛び乗った。突然二
人もの騎乗者を迎え、愛馬がいななく。
落ちて来る木片と粉塵とを振り払うようにして、徐々に徐々に遠ざかっていくその姿
に、トラヴィヌスは胸中で快哉を叫んでいた。顔に浮かびかけたのは会心の笑み――し
かしまた、それすらも鋭い声によって遮られた。
「サルト、猫を!」
(……『猫』?)
トラヴィヌスが疑問に思うより早く、視界の端を幾つか黒い影が横切った。それらは一
度サルトの元に駆け寄ると、細長い尻尾をたなびかせるようにして、いっせいに方々に
散っていった。
「一応追わせはするけど、僕の猫は探索・通信用だよ。そんなに足が速いわけじゃな
い」
サルトが申し訳なさそうに付け加える声が響く。
魔法で具現した坂道の上で、シドッグはしばらくの間、虚空を睨むようにして唇を噛み
しめていた。しかし、ふと勢いよく顔を上げると、突如としてこちらに向かって坂を駆け下
り始めた。
凄まじい速度で近付き来る青年の姿に、トラヴィヌスは全身を震わせた。殺される
――これ以上ない悪寒が、ぞっと背筋を駆け抜ける。
だが、それは杞憂に終わった。真横を疾風のように通り過ぎた青年を、トラヴィヌスは
慌てて目で追った。シドッグの向かうその先に見えたのは、第一騎士団が騎乗してきた
後、放っておかれた数頭の馬の集団。
(何という執念だ……)
いくらシドッグの卓越した馬術であっても、今からでは追いつけまい。それは、素人目
にも分かることだ。だが彼の翠色の瞳は、ただ一つの事だけを見つめている。ナシルを
取り戻す事だけを求め、駆けている。
そこまでして、ナシルを《裁判》にかけたいのか。そこまでして、ナシルを死に導きたい
か。そんなにまで、この男はナシルを殺めたいのか……!
今にも馬上の人となりかけたシドッグを、だが、引き留めた者があった。
次ページへ続く
*Illust by (C) ryoubou.org 2008*
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