「まァ、落ち着けや、シドッグ。すぐに逆上する癖、まだ直ってねェのな?」
 ゆるやかに空気の流れに沿うような、低いがよく通る声。
 サルトではない。もちろん、他の《フィンデガルデ》の騎士たちのものでもない。
 トラヴィヌスが目を遣ると、鐙(あぶみ)に足をかけたまま動きを止めたシドッグの向こ
うに、いつの間にか人影が一つ現れていた。
「団長……」
 突然の事に眉をひそめるトラヴィヌスの元へ、幾ばくかの安堵を乗せたような、サルト
の呟きが届く。
 先刻、シドッグとサルトのことを、《第二》と呼ぶ声があったのを、記憶している。では、
サルトが「団長」と呼ぶ相手は、《フィンデガルデ》第二騎士団の団長以外にない。つま
り、好事家の。
「チビに後を追わせたから。心配すんな」
 柔らかさすら伴うその言葉は、シドッグに理性を取り戻させるのに十分のようだった。
驚くほど従順に、彼の手足が馬から離れる。
 トラヴィヌスは、そこで初めて、男の姿を目で捉えた。
 風になびく髪は黒く、男が歩む度に揺れる外衣も黒――漆黒だけに包まれた、丈高く
恵まれた体躯。
 最初に胸に宿り来たのは、違和感だった。まるで、そこに懐かしい物を見出したよう
な、これは既視感というべきだろうか。
(何処かで会った事があるか……?)
 《フィンデガルデ》第二騎士団の団長ともなれば、王国の政事の中心たる《枢密院》へ
の出席も許されるような高官に相当する。その昔、顔を合わせた事もあったかも知れな
い。
 それにしても――と、トラヴィヌスは眉根を寄せた。
 それにしても、何と人目を引く男だろう。美醜を判じるより、その燃えるような群青色の
双眸の強さのほうが、先に立つ。鋭く締まった精悍な容貌は整ってはいたが、どこか粗
野めいて荒々しい魅力があった。
 そして何より、若い。恐らくは二十代の後半から三十代といった所、一騎士団を統轄
する役目を任されるにしては、弱齢に過ぎる。
 このように目立つ男なら、一度出会えばそうそう忘れはしないはずだが、記憶は何処
か散漫として、一向に線を結ばなかった。
 だが、分かる。奇妙な悪寒と共に、感じる。――この男は危険だ、と。
「半分成功、半分失敗ってトコか」
 悪戯めいた気安い物言いなのに、空気すら凍て付かせるような威圧感があった。第一
騎士団の面々もそれなりに秀でた戦士たちなのだろうが、この男とはまるで格が違う。
 後ずさりしたくても、矜恃(きょうじ)が邪魔となって出来ぬのだろう。第一騎士団の者
たちの足元で、その逡巡が僅かに砂を掻く音となって現れていた。
「第一騎士団」
「は、はい?」
 ごく短い呼びかけに、男たちの肩が大きく震えた。
「これ以上話が込み入って来ると、面倒だ。直ぐにジオ・フォードを連行しろ」
「し、しかし」
「――聞こえなかったか?」
 斬り付けるような眼光は、喩えるなら青き刃。閃いた瞬間、そこでは気紛れな風さえ口
をつぐむ。
「わ、分かりました!」
 第二騎士団の団長は、第一騎士団の者に直接命令を下せる立場にはない。しかし、
そんな官位規定など失念してしまう程に、男たちは慌てふためいていた。魔法の蔓は取
り払われていたが、それでもぴくりとも動かないジオの身体を持ち上げると、自分たちが
負った手傷を庇うのもそこそこに、騎乗し走り去っていく。その間、トラヴィヌスが口をは
さむ余裕すらなかった。
「それと、サルト」
「はい!」
 《赤目》の青年がすぐさま応じ、男のほうへと駆け寄って行く。
「今回の失策の原因は、自分で分かってるな?」
 静かな、だが厳しい声音が向けられた。「はい」と、言葉少なに答えるサルトの背筋
が、ぴんと張り詰める。
「以後注意しろ。二度はねェぞ」
「はい!」
 簡潔に投げかけられる言葉に無駄はなく、答える側も的確な返事しかしない。
「お前には改めて作戦の続行を命じる。アシュカ=トラエンスという名の娘を?」
 男の口から飛び出た名前に、トラヴィヌスははっと顔を上げた。ナシル付きの、侍女。
密偵から報告を受けた後、無我夢中で王宮を飛び出して来たから、彼女の事には思い
至っていなかった。何て不注意だ――トラヴィヌスは、きつく唇を噛む。
「ナシラウス王子の侍女、だよね? うーん、いまいち分からないかも」
「彼女がどうかしましたか?」
 そう言って、男の元に足を近づけたのは、シドッグだ。
「行方をくらましてる。外に通じる《市門》は全部封鎖しているから、王都の中にいるのは
確実なんだがな。シドッグ、アシュカ=トラエンスの面貌などを詳しく」
「ああ、はい」
 シドッグがアシュカの姿形を丹念に説明するのを聞くとはなしに聞きながら、トラヴィヌ
スは眉根を寄せる。
(何か察知して、逃げ出したんだろうか?)
 理知に富む少女だ、不穏な空気を察して王宮を抜け出す可能性もなくはない。
「……うーん。今の説明だと、背格好も顔形も、王子様にけっこう似てる感じがする
ね?」
「確かに何処となく似てる所はある」
「分かったー。団長、じゃあ僕は、アシュカって子を捜せばいいんだね?」
「あァ。中央広場、《勝利の像》周辺に、何人か待機させてる。合流次第、何としても見つ
け出せ」
「了解」
 命じる声の余韻も消えぬうちに、気付けばいつの間にか、サルトはこの場から姿を消
していた。
(何て男だ……)
 目の前のこの男は、敵でなければ、敵でさえなければ、称賛に値する統率力だと思
う。簡潔な命令だけで配下が従うのは、絶対の信頼と畏敬の念のみがなせる業だ。生
半可に出来る事ではない。
 ようやく男がこちらに目を向けてくるのを見て、トラヴィヌスは胸中に浮かんでいた賛辞
を隠し、苦々しく息を吐いた。未だ立つ事の出来ぬこの身では示しがつかないが、仕方
がない。
「第二騎士団団長。貴様は今、《西方》方面軍を統轄しているはずだが?」
 そう、第一騎士団が王国《東方》に常駐しているのと同様に、第二騎士団はここ数年
の間、王都から遠く隔たった《西方》辺境に派遣されていた。騎士の一人や二人、派遣
先から遠い王都に来ていてもさして問題はなかろうが、その首位の人物が部署を離れ
るとなると、話は違ってくる。
「まァ、そいつには色々と訳がありまして。部下だけじゃァない、自ら乗り込まにゃならん
って事は、間々あるもんでね」
 肩を竦めながら紡がれた言葉に、シドッグが一瞬微かに身じろぎするのが見えた。そ
れに頓着する様子もなく、男は続ける。
「でも、今の貴方だって、さして変わりはしない。弟公(おとうとぎみ)の所に自ら乗り込ん
でこなくても、護衛兵たちに任せればよかった話じゃ?」
「それは――」
 違う、と続けようとした言葉は、喉元で途切れた。
 もし、この護衛兵たちの中に、心から信頼できる者であれば、任せたのだろうか――
肉親の一大事に人任せにはしておけぬと、断固としてそう主張し通すには、自分と彼ら
との関係は冷え切り過ぎていた。必要以上には言葉を交わさない。腹を割って話す事な
ど、無論あるはずもない。彼らは義務として自分を守り、また自分も、ただ義務として守
られるだけだ。
 そこで思い浮かんだのは、今ここにいない一人の護衛兵の顔だった。《聖地》に派遣し
てまだ帰ってこないヤン。彼が王都にいたなら、もしかしたら……もしかすれば、自ら飛
び出してくる事はなかったかも知れない。
「まァ、でもおかげで、こうして直接お訊ねする機会を得られた訳でね」
 嫌な笑い方をする男だ、と思った。品に欠けるという訳でもないが、常に飄々として、
何処となく不遜めいた雰囲気を醸し出す。
「……どういう意味だ」
 男は、薄く笑ったまま、しばらくこちらを見つめていた。だが、ふと目を逸らすと、ゆる
やかに表情を変えた。次いで向けられたのは、射通すような眼差し。炯々と貫くような、
強い視線。
「殿下は、今回の件に関して、何か違和感をお覚えには?」
 もたらされた言葉を理解するのに、しばしの時を要した。
 そして思い至った瞬間、激しい怒りが身に湧き起こる。はち切れそうな感情を押さえ切
れず、トラヴィヌスは叫んだ。
「『違和感』だと!? 《フィンデガルデ》、貴様らがそれを言うか!」
 奔騰するような、波打つような。
 違和感と呼ぶなら、その全てがそうだった。おかしい、何もかもがおかしい。ナシルが
反逆だなんて、護衛官のシドッグが《フィンデガルデ》だったなんて!
 義兄シャルドゴールの手足となって、今回の陰謀に携わった《フィンデガルデ》に、その
ような事を訊ねられる謂れはない。
 が、真正面からぶつけた激情は、深い溜め息に遮られた。
「……誤解があるようで」
「なに?」
「確かに我々は、シャルドゴール殿下個人に従属している状態にあります。だが、全幅
の信頼を寄せられている訳じゃァ、ない。事実、今回の件で我々が知る情報は一つ、
『第三王子が謀叛計画を立てた、ゆえに連行の要あり』と、これだけです」
 劇烈な怒りの余韻が、唇に、目に、頭の中に残っていた。掻き回された思考は男の言
葉を把握し切れず、ただ眉だけが険しく寄せられる。
「今回の件は、我々の目から見ても納得しかねる。時期、手段、陥れる相手、そのすべ
てが」
「……貴様の発言は、要領を得ない。要点のみを話せ」
 トラヴィヌスは、男の言う内容がはっきりとは分からないままに、先を促した。聞いてお
かねばならない話だと、直感で悟ったのだ。
「殿下ともあろう方が、お忘れか? 《聖罰》とも《大巫女の呪詛》とも呼ばれる、忌まわし
き災禍を」
 男の言葉は、聴く側の推論を求めるように、やはり簡潔で。
 だが、トラヴィヌスにはそれで十分だった。それで、男の言わんとしている事の全てが
理解できた。途端に、冷静に思考が巡り出す――。
 父帝が亡くなり空位のまま、三年という月日が一見平穏に過ぎてきたのは、王位継承
の鍵を握る《大巫女》からの打診を待っている為と、一般には理解されている。しかし政
治の中枢にいる者は皆、それが直接の原因ではない事を知っていた。
 もし《大巫女》が、次なる王に冠を被せるという、ただそれだけの役目を負う者であった
ならば、恐るるに足りない。王位を狙う者同士が争い合い、生き残った唯一の勝者が玉
座に腰を据えればいいだけのこと。事実、そのように単純に考え、《大巫女》を蔑ろにし
たまま王位を簒奪しようとした者は、王国の長い歴史上には数多く存在する。
 だが、そのような先例がことごとく失敗に終わっている事実も、歴史をひもとけば直ぐ
に明々白々となる。
 《大巫女》が認可しない者が王国の統治者となろうとした時、国を襲うのは常に天変地
異と呼ぶに相応しい災害だった。河川は枯渇し、大気は濁り、開墾した土地は森林の
侵蝕を受ける一方で、地力が加速度的に低下していく。いつしか作物が実らなくなり、鳥
獣は狩人すら持て余すほどに凶暴化した。そして更には、人の子のはずなのに人とは
呼べぬような、奇っ怪な姿形をした生物が生まれるに至り――。
 学者はこの災禍を、《大巫女の呪詛》と呼んだ。聖職の頂点にある《大巫女》の立場か
ら、《聖罰》と名付ける者もいた。
 義兄シャルドゴールが今まで表立って兵を挙げなかったのは、《聖罰》を恐れていた為
に他ならない。トラヴィヌス自身もそうだ。災禍が降り掛かるという前例さえなければ、後
継者問題は、このように血を見ないまま膠着状態を迎える事はなかっただろう。
 なのに。
(義兄上は、なぜ今になってナシルを陥れようと画策したのか……)
 王位継承権を持つ者を、たとえ裏で計を巡らしつつであっても、無理に陥れようとする
行為は、王位簒奪の意思ありとみなされ、《聖罰》の対象になりかねない。今までそれな
りに沈黙を守っていた義兄が、この段になって自らの首を絞めるような事を起こす理由
が、分からない。
 それに、もっと気になるのは――。
「一番不可解なのは、対象がナシラウス殿下だったという事だ。少なくとも俺なら、まず
間違いなくトラヴィヌス殿下、貴方を陥れる」
 次なる王位を狙い対峙する今の関係を、三陣営の睨み合いと評するのは、やや乱暴
と言わざるを得ない。ナシルを王位にと目論む者は極めて少数、公然と唱えている者に
限定すると、数としては存在しなくなる。
 第二騎士団の団長が漏らした発言は、危うさに満ち、至極不敬なものだった。しかし
その言葉が紛う事なく真実を指し示しているのだと、トラヴィヌスには分かる。 正常な判
断を下せる者なら、敵にもならぬナシルなど、まず相手にしない。一番の敵を――つま
り自分を、考えられる最高の謀略によって完膚無きまでに叩き潰す。
 不敬な、と声を上げた護衛兵たちを、トラヴィヌスは片手で制した。
「それで、貴様は私に何を訊こうと言うのだ」
 眼前に立つ漆黒の男を睨むようにして見上げ、問う。
 風が吹き、砂が舞い、そして男は笑んだ。満足げに、だが何処かこちらを探るような視
線が向けられる。
「ナシラウス殿下のことを。あの小さな王子に隠された、重大な秘密を」
(……『秘密』?)
 トラヴィヌスは男のせりふを反芻し、眉をひそめる。
「どういう事だ、ナシルに秘密なぞ」
「それ以外に」
 口から溢れ出た反論は、ゆるやかに傾けられた群青色の眼差しに、すぐさま遮られ
た。
「それ以外に、貴方より先にあの王子を陥れる理由は、皆無だ」
 断じる声は確信に満ちていた。気圧され、トラヴィヌスは息を呑む。
 義兄シャルドゴールが、自分よりも先にナシルを滅せんとする根拠は、確かにナシル
自身に求める他ないのかも知れない。
 しかし、ナシルが――あの、あどけなくも思える弟が、義兄に殺意を抱かせるような秘
密など、持ち得るものだろうか。秘密や謎という言葉ほど、弟に縁遠い語はないように
思えるのに。
「……皆が知っている以上の事を、私が知っているとは思えん」
 生母が庶民の出であり、既に亡くなっていること、三番目の王子であること、戦乱には
向かぬ優しい性格であること。それ以上に、知っている事など――。
 トラヴィヌスはそこで、漆黒の男の脇に立つ、一人の青年を見上げた。
 見慣れた紺の軍服、今までは主君たる一人の王子の為だけに振るわれていた長剣、
そっぽを向いて何処か興味なさげにすら思える端正な横顔。
 それらすべてを目に収めると、トラヴィヌスは、万感をこめて、そして皮肉すらこめて、
言葉を打ち出した。
「特に、そこの裏切り者以上にはな」
 刹那、青年の翠色の瞳が動いた。
 視線が交錯する――それは一瞬、だが永遠にも思える時間で。
 しかしその間、トラヴィヌスは、勝手に震え出す唇を、手を、全身を、必死に食い止め
ねばならなかった。湖面のように静かで、何ら感情を映さぬ翠色の双眸は、何を言って
も揺れ動く事はない。
「……俺も賛同しかねます。六年もの間そばにおりましたが、何ら変わった情報は耳に
しませんでした」
 翠色の眼差しが横に逸らされて、胸に宿り来たのは大きな安堵感だった。思わずほっ
と息をつきかけた自分を恥じ、トラヴィヌスは唇を噛む。
 以前のシドッグとは、まるで違っていた。圧迫感が違う。感じる気魄が違う。
「そうか。王都まで来りゃ何か分かるかと思ったが、浅薄だったかな」
 男は、うーんと大きく伸びを見せる。
「まさか貴様、それを知る為だけに《西方》を離れ、王都へ?」
「ま、主な目的はそれですがね」
 男は、そのひどく印象的な目を閃かせて、ゆるく笑った。
「ここでお会い出来たのも何かの縁だ、最後に一つ忠告をしておきましょうか」
「なに?」
「これから弟殿下らを救うべく、奔走なさるおつもりなんでしょうが、彼が抱える秘密次第
では、その行為を悔やむ事になるかも知れませんよ」
「……何だと!?」
 トラヴィヌスは、噛み付くように声を上げる。
「ただの戯言ですよ。ま、お気に召されるな」
 歌うような口調でそう言うと、男は黒衣の裾を払い、歩き始めた。遠ざかる背中に、トラ
ヴィヌスは言葉を紡げない。
 悪態を吐こうにも、鼻で笑い飛ばそうにも、指摘された言葉は余りにも重過ぎた。
(あの男は、何を知っているのだ……?)
 ふと、間近から視線を感じた。顔を上げたトラヴィヌスは、弟の護衛官であった青年
が、すっと自分から目を逸らす姿を捉える。
 やがてその青年も、静かに歩き始めた。振り向く気配すら見せないその背中を見て、
トラヴィヌスは何か込み上げてくるものを感じる。
 何を言えばいいのだろう。どんな言葉を向ければ、届くのだろう。
 吐き出そうとしたすべての言葉が、舌の上で凍り付いた。かろうじて口から出たのは、
喘ぐように繰り返される小さな吐息だけ。
 立ち去る二つの影を見送りながら、トラヴィヌスはただ立ち尽くす他なかった。
 そして、晴れ渡っていた天空には、いつの間にか暗雲が立ち込め始めていた。





第一章 X End



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