陽光の下にあって、まるでそこだけ暗黒の闇に刈り取られたかのように不気味に浮か
び上がる、漆黒の甲冑の集団。舞い上がる粉塵を鷹揚に掻き分け、金属のこすれ合う
不愉快な音をまき散らしながら迫り来る姿には、一片たりとも隙はない。
 手足の先から頭の先まで、余す所なく黒ずんだ鋼鉄に覆われていながら、彼らの動き
は鋭く鍛え上げられ、見事なまでに滑らかだった。一様に身につけたマントは風を孕ん
で大きく翻り、壮絶な威圧感とともに、鮮やかにその紫紺色をナシルの目に焼き付け
る。
 紫紺――それは、竜とも形容されるこの国の君主の、忠実なる僕であることを示す至
高の当色。次第に姿を現し始めた男たちの、その引き締まった体を包む黒い甲冑の胸
に光る《翼ある狼》の紋章に、ナシルは大きく目を見開いた。
「《フィンデガルデ》……!?」
 それは、覇王たる竜に忠節を買われ、天空を駆けるための翼を与えられたという、伝
説上の有翼狼の名前。そしてそれは同時に、この王国の治安と安寧とを守護する役目
を負った、最強にして最高の騎士団に冠せられる名称でもあった。
 帝王と王国全体とを守るに足る、精悍さと気高き魂をそなえる者。この世で最も勇まし
く猛き者。それが《翼ある狼》――フィンデガルデ。
 王国屈指の騎士と魔術師とを揃えたこの軍団は、本来竜の紋章を持つ王族全員に忠
誠を誓うものとされている。しかし王位継承の定まらぬ今、彼らが従っているのはそのう
ちの一人に対してだけだった。
 すなわちナシルの義兄たる第一王子、シャルドゴール・エガ・ラディンスの為だけの軍
団。いわば、私兵へと身を堕とし誇り高き魂を過去へ捨て去った、蛮勇の騎士たちであ
る。しかし彼らはそれが罷り通るだけの武力と権力とを、昔と変わらず持ち続けていた。
(何でフィンデガルデがここに……!?)
 義兄の私有兵と化した《フィンデガルデ》。だが今まで、彼らから直接攻撃を加えられ
たことはなかった。いや、送り込まれた刺客の中に、実際の素性がフィンデガルデの一
員だということはあったかも知れない。しかしそれでも、身元が露見するような証拠を彼
らが残すことはなかった。
 それが何故、今、こんな所に現れる。
 シドッグが壊れ果てた小屋を顧み、腰に差した長剣の柄に手をそえるのを、ナシルは
目の端でとらえた。
「先刻の魔法は貴様らの仕業か」
 次いでその口が発した声は、高ぶりを押し殺すように低く、簡潔にして。
「いかにも」
 応じる声も短く、しかしそれは発した男が浮かべた薄気味悪い笑みの為に、ひどく不
愉快に響いた。
「不意打ちとはねェ……」
 今度はジオの口から、ふうと尾を引くような長い溜め息が落ちる。
 知らずそちらに顔を向けたナシルは、次の瞬間、
「ここにおわすが第三王子殿下と知っての狼藉かッ!!」
 弾け飛ぶような気迫を持って発せられた大音声に、はっと首をすくめた。
 丈高いジオの体が、一回りは大きく膨れあがったように見えた。その声は、大気を呑
み込み、地底をも覆す勢いで響きわたり。
 《フィンデガルデ》の幾人かがぴくりと眉を動かし、しかしそれも、地に刻まれる幾つも
の靴音と、甲冑が響かせる堅い不協和音を前に、はかなく消え失せた。
 集団の一番先頭を歩いていた男が、勿体振ったように口を開くのが見える。
「なに、足を奪ったまでのことですよ」
 男たちの間に、小馬鹿にしたようなさざめきが広がった。
 しかしナシルは僅かに眉をひそめただけで、本来ならば自分にも随従すべき者たちの
無遠慮な挑発を、静かに受け流した。男たちの嘲り笑う様は、顔を合わす度にいつも自
分を蔑み見る義兄シャルドゴールを思わせる。
 鳴り止まぬさざめきを奪うように、ふと、鋭い声が立った。
「いつ、《フィンデガルデ》ごときに王族を襲う権限が与えられたか、知りたいモンだなァ」
 たぎるような目つきで男たちを見つめるジオに、いつもの軽妙さは微塵もない。
「先ほどの攻撃は、警告も兼ねましてね」
「『警告』だと?」
「ええ。逃走でもされたら骨が折れますから」
(……『逃走』だって?)
 瞬間、どくんと、強く胸が脈打つ。
 何かがどこか遠くで警鐘を鳴らし始めるのが分かった。逃げろ、危ない、ここにいては
危険だと。
「ナシラウス・エガ・ラディンス殿下」
 高鳴る動悸の向こうに響いた声は、地を這うより低く、凍て付く刃のように冷ややかだ
った。
「貴殿は反逆罪で告発されています。どうかご同行くださいますよう」
 間断なく突き付けられた言葉は、天空より真っ逆さまに落ちてきた雷槌のようで。
 いともたやすく臓腑と脳髄の奥底を揺り動かした衝撃は、瞬く間に咽喉をもからからに
干上がらせた。
「はんぎゃく……ざい?」
 知らず漏れ出た声はひどくかすれ、震えを帯びていた。
「どういう意味だ、『反逆罪』だと? 王亡き世のドコに『反逆罪』が存在する」
 真っ向から噛みつくジオの言葉も、呆然とした思考の向こう、どこか遠くで行き過ぎ
る。
 自分は、絶対に何もしていない。ただ毎日、二人の従者と一人の侍女と一緒に平和に
何事もなく過ごしていただけ。義兄たちが繰り広げる権力闘争からも、常に遠 いところ
に身を置いていた。出来ればトラヴィヌスが王位を継ぐことになればと望む 気持ちはあ
ったにしろ、それを口にしたことはない。
 王位継承すら別世界のような出来事なのだ。反逆などあり得るはずもない!
「《ライラット公爵領》。これを聞いて思い起こす事はございませんか?」
 次いで男の口から告げられた言葉に、ナシルは眉間を険しくした。
 聞き覚えのある地名。さる理由から、自分が属するラディンス王家にとって、政治的に
歓迎できない地域である事も、常識として知っている。だが、それだけだ。
「それが、何?」
 まるきり理解不能――しかし、ざわざわと足元から這い寄るような悪寒がして、聞き返
す言葉は短く弾けた。
「空々しい事を申されますな、居直るおつもりですか? 発見されたのですよ、あなた様
と《ライラット公爵領》との間で交わされた、謀叛を企てる計画書がね」
 差し出されたのは、心底思い当たる節のない事実。
 ふと、沈黙が下りた。
「……は、あ?」
 余りにも予想外のことに、まるで気の抜けたような声が漏れた。突拍子もないそれ
は、戯れ言に近い。
 《大内乱》の際に反逆者の一員として王家に刃向かって以来、半独立状態を保ってい
る《ライラット公爵領》。王家に追従する貴族たちが忌み嫌うその場所の名は、十分な教
育を受けない街の人々ですら常識としていることだ。
 しかしナシルの知識量も、町人たちのそれと大差ない。その半独立した領地を統治し
ている者の名前すら、よく覚えていないのだ。確か女性の公爵だったような、という程の
体たらく。
「言い逃れは出来ませんよ。国家の転覆を企む逆徒どもとの共謀を裏付ける文書が、
幾つも幾つも見つかったのですから」
 男が淡々と告げてくる事柄に、何一つ身に覚えはなく。
 ナシルはただ呆然と……愕然とするばかりだった。今、目の前で起きている事が、何
一つ理解できやしない。
 書いた覚えのない書簡が見つかって? しかもそれには謀叛を企てる内容が記されて
いて? そしてその為に今、こうしてフィンデガルデに追い詰められていて?
「……嘘だ! そんな物を送ったことはない!」
 ひそやかに、だが確実に頭の奥で刻まれ続ける警鐘。
 男はナシルの目の前で、うっすらと笑みを浮かべた。
「あなた方と、ここで事の次第について論じる気はございません」
「何ッ?」
「我々はただ命令に従うのみ。要は、殿下がご同行くださればよろしいのです」
「《裁判》を受けろというのか」
「いかにも。その通りです」
 反逆罪であれ何であれ、フィンデガルデの手で引っ立てられた罪人は、《裁判》と呼ば
れる審判を受けることになるのが不断の定めだった。連行された者が申し開きを行う唯
一の機会にして、最高の司法機関である。
 しかしその《裁判》も、先帝亡き今、形骸化して権力闘争の場と成り果て、もはや死刑
を早めるだけの仕組みに過ぎなかった。
 ――死刑。
 ナシルは、不意に脳裏を掠めた酷たらしい光景に、小さく息を呑んだ。
 それは余りにも凄惨な、血の粛清。
 八年前の《大内乱》終息後、相次いで主謀者たちに架された斬首の刑――彼らはアリ
デラ《中央広場》の石畳の上で最期を遂げ、さらに死してなお、首だけの状態でその場
に残された。
 薄汚れた木台の上に、無雑作に安置された生首。飛び出た眼球を鴉がつつき、ただ
れた外皮に蛆が巣食う。周囲に腐臭をばらまく紫黒色の肉塊と化したそれが、極刑に
処された者の末路だった。
 自分も、ああなるというのか。
 ナシルはぶるりと肩を震わせた。嘔気が一気にせり上がり、喘ぐ喉元は言葉を発せな
い。
「断るッ!!」
 まとわりつく空気を弾き飛ばす激した声は、ジオから。
 我に返ったナシルは、自分を気遣うシドッグの手に気付き、弱々しい動作で後ろを振り
向いた。そこに見えた柔らかな翠色の双眸に、気持ちが安らいでくるのを感じる。
(大丈夫、大丈夫だ……シドッグもいる。ジオもいる。絶対に大丈夫……)
 震えの収まらない体に、何度も何度も言い聞かせるように深呼吸を繰り返す。
「まあ、そうおっしゃるだろうと思っておりましたがね。では仕方ない、実力行使と参りまし
ょうか?」
 瞬間、次々と鞘走る音が響いた。ふと吹き立った強い風に、男たちの紫紺のマントが
まるで燃え盛る地獄の猛火のように揺らめき上がる。
 一瞬にして、場の空気は緊迫に張り詰めていた。
 ジオが背負っていた矢筒と弓とを放り出す、乾いた音が立った。
「シドッグ、お前は下がってナシルを守ってろ。ここはオレで十分だ」
「……了解」
 途端にナシルは、強い力で後ろに引っ張られた。
 よろめく視界に見慣れた紺色の背中が映り込み、そしてその脇から、二本の短剣を逆
手に握る、見慣れぬ型で構えをとるジオの姿が、垣間見えた。
「おお、そういえばお伝えし忘れておりました」
 先頭に立つ男が、凍て付くような音を立てる光球を手の内で玩びながら、ふと思い出し
たように口を開いた。
「義兄君シャルドゴール様から、ナシラウス様への伝言がございました」
 男の顔に張り付くのは、慇懃な笑み。その薄笑いの奥に、蔑みに目を細める義兄の
顔が透けて見える。
「『最後の絶望劇を楽しむがいい』、と――」
 男が言い切らぬうちに、場が動いた。
 先に仕掛けたのはジオ。
 ダンッと石畳を蹴る音が響いたかと思うと、気付けばジオの体は、一瞬虚を突かれた
男たちの向こうへと消えていた。
 そして、轟音。地面へと崩れ落ちる二つの体と、舞い上がる土埃の下に現れた、見慣
れた軍服姿の教育係。
 直後頭上から襲い来た幾束もの氷波を、ジオは器用に反身で避けてみせた。
「魔法ッてのはなァ――」
 ジオはそのまま、最も間近にいた一人に躍りかかる。
「当たンなきゃ、イミないんだよ!」
 遠心力の加わった一撃が相手の腹を薙ぎ、相手とその後ろにいた男が吹き飛んだ。
真際に相手の手から放たれた巨大な砂礫の渦が、叩き付けるような激しい音とともに正
面からジオを呑み込む。
「ジオ!」
 舞い飛んできた砂埃から目を庇いながら、ナシルはたまらず声をあげた。
 しかしジオは、軍服と露出した肌の所々を切り裂かれながらも、すぐさま砂礫の渦を飛
び出してきた。そしてそのまま、術者の頬に肘鉄を浴びせかける。
 息もつかせぬ激しい攻防に、ナシルは見守ることしかできない。
「ジオ、どうだろ……勝てるかな……」
 思わず不安を洩らすが、
「魔法を使う者が三人、剣士が六人。戦い方さえ誤らなければ、恐らくは」
 手前で戦闘を見守るシドッグから、すぐさま落ち着いた答えが返ってきた。ナシルは安
堵して、大きく溜め息をつく。
 そしてそこで不意に思い出したのは、戦闘が始まる直前にフィンデガルデが告げてき
た、義兄シャルドゴールの伝言。
(……『最後の絶望劇』って、どういう意味だろ?)
 遠くで苦痛の呻き声があがっている。
(『絶望劇』……?)
「コレで寝とけッ!」
 勇ましい声に目を向けると、ジオの拳が剣を握った一人の男の鼻をとらえていた。相
手はそのまま仲間を数人巻き込み、昏倒する。
 敵は既に半数に減っていた。氷波と砂礫の渦を幾度かまともに食らい、あちこちにひ
どい手傷を負いながらも、ジオの表情には余裕がある。
「あいつは、やっぱり強いですね」
「うん」
 背中で庇われている今、シドッグの表情は見えない。しかしナシルは、彼が満足げに
微笑んでいることを感じ取った。
 《処刑人》とも呼ばれ恐れられるフィンデガルデの戦士たちを前に一歩も引けを取らな
いジオが、従者として自分の側にいてくれることは、心の底から嬉しい。
 しかし。
 ナシルは、先刻伝え聞いた義兄の言葉が、気になって仕方なかった。
(何か、とてつもなく悪い予感がする)
 何かは分からないのだが。
(僕が、どんな事に『絶望』するっていうんだ?)
 ナシルは、眼前の激戦から目を離すことなく、口を開いた。
「シドッグ。さっきあの人『絶望劇』って言ってたよね? あれ、どういう意味だと思う?」
 剣戟の音が鳴り止まぬ場に、一瞬奇妙な沈黙が下りた。ナシルが訝って眼前の背中
を仰ぎ見るより先に、聞き慣れた声が静かに落ちてくる。
「そうですね、シャルドゴール様の真意は分かりかねますが……」
 動かぬ背中は、何事か深く考え込んでいるようだった。どことなく返事が上の空のよう
に感じるのは、気のせいではないだろう。
(シドッグにも分からないのか)
「――でも」
 いつの間にか知らず頭を垂れていたらしい。前方から響いた低い声に、ナシルははっ
として顔を上げた。
「何にせよ、向かってくるものがあれば立ち向かえばいい。それだけのことです」
 そう言い切って、腰に差した古ぼけた愛剣を握って揺るがぬ背中は、ナシルの目にひ
どく心強く、頼もしく見えた。
「……うん、そうだね」
 今も目前で敵を沈め続けてくれているジオ。こうして自分を庇い、守ってくれているシド
ッグ。
 二人は国一番の従者たちだ。この二人が一緒にいてくれさえすれば、きっと、どんな
事だって乗り越えて行ける。絶対に、絶対に大丈夫だと信じられる。
(にしても、僕はいつも二人に頼ってばっかりだよなぁ)
 ナシルは己の情けなさを案じて、ぽりぽりと頭をかいた。
 今回の事を切り抜けたら、さぼりがちだった剣の修業もちゃんとやろう。嫌がるジオを
引き止めて、いっぱい色々な事を教えてもらおう。凄腕のこの従者たちに言ったら笑わ
れてしまうだろうから言わないけれど、大事な人を失わないくらいには、強くなりたい。
 ――いや、強くならなきゃいけない。
 ナシルは決然とした燦めきをその青い双眸に宿らせて、しっかりと前を見据え直し
た。類い希なる技量を持て余して一人たたずむ護衛官の背中を見、舞い踊るような剣
技を披露し続けている教育係の背中を見る。
 彼らがこうして側にいて自分を守ってくれているように、いつか自分も――。
「おし、最後ッ!!」
 ジオの大声につられて顔を動かすと、彼がちょうど最後の敵に跳び蹴りを食らわす所
だった。
「やった、ジオ!」
 ナシルは相好を崩し、思わず飛び跳ねる。
 しかしジオは、一目で満身創痍と分かる、ひどい状態だった。
 彼がいつも熱心に整えているブラウンの髪は、散々に乱れたうえに所々裂けてちりち
りになっていたし、軍服はあちこちに穴があき、露わになった素肌には、血が滲んでい
た。
「へへ、やったぜ、ナ……シル」
 微かに頬を緩めると、ジオはぐらりと地面の上に倒れ込んだ。
「ジオ!」
 ナシルは、剣を腰元の鞘に収めながら、ジオの元へと駆け寄っていく。
 周囲に転がるフィンデガルデたちを巧みに避けながら、今にも彼の元へと到着しようと
した、ちょうどその時。
 突如、倒れ伏していたジオの目が大きく見開かれた。
「ナシルッ! しゃがめッ!」
「えっ!?」
 ジオの言葉の勢いに押されたナシルは、すぐさまその場でしゃがみこんだ。
 そしてそれを待たずして、下げた頭の上ぎりぎりを、何かが通り過ぎていくのを感じ取
る。後から凄まじい風圧が襲ってきて、ナシルの蜂蜜色の髪が煽られて舞った。
(また敵が!?)
 胸中で悲鳴をあげながら後ろを振り向いたナシルは、そこではっと目を瞬かせて動き
を止めた。
 視線の先に、敵と思しき輩の姿はない。一人の頼れる護衛官の姿が、先刻と変わら
ずそこにある。
 しかし先刻と異なっている事が、たった一つだけ。
 頭上に突き付けられた一本の長剣と、その獰猛な刃の持ち主。
 陽光を映し、苛烈なまでに煌めく刃先を握っている、その青年。
 今にも自分を切り裂かんとする、その凶刃を手にしているのは、ひどく見慣れた顔の
――今まで誰よりも頼みとしてきた、青年で。
(……え?)
 すべての時が止まった。
 視界が根っこから揺らぎ、ごとりと膝が落ちた。
(シドッグ……?)
 振り仰ぐナシルの眼差しの先。
 青年は見たこともないような酷薄な笑みを浮かべていた。柔らかさも優しさも、いたず
らめいた気安さも何一つない、乾いた笑み。
「どういうコト、だ?」
 ジオがよろめきながらも立ち上がり、ナシルの前へと移動する。
 それはまるで、誰かからナシルを守るように。ナシルを害する危険な誰かの行く手
を、阻むように。
(ジオは僕を庇おうとしてる……? こんなに重傷な、ジオが?)
 この教育係は何から自分を庇おうとしているのだろう。何に危険を感じているというの
だろう。
(何に対して……?)
 ふやけた視界の中、「彼」の姿が浮かんでは霞み、霞んでは浮かび上がってくる。
(ああ、きっと夢を見てるんだ──)
 それも、信じられぬ程恐ろしい夢を。想像を絶する程の悪夢を。
 彼が自分を攻撃するなんて、絶対にないのに。あり得るはずがないのに。
 ――なのに。
 体とともに小刻みに震え出した視界は、蔑みの表情を満面に貼り付けた、一人の護衛
官の姿をとらえる。
「見て分からなかったか?」
 放たれた声は、大気を切り裂く凍て付いた刃のように冷たくて。
「連中にやられて、頭までいかれたか?」
 シドッグは顎をしゃくるように動かして、そこここに転がるフィンデガルデたちを指し示し

「……つまり、オマエは裏切ッたんだ、な?」
「人聞きの悪い事を言わないでもらいたいな。裏切ったんじゃない。俺は元々、《フィンデ
ガルデ》の一員だったんだよ」
 そう言って可笑しそうに肩を揺らすシドッグは、さながら悪鬼のようで。
「じゃァ、演技してたってこと、か?」
「そうなるな」
 がくんと音を立てて、視界が揺れる。膝が笑う。
 手足がずるりと、力を失う。
 どうして、どうしてと、それだけが頭の中を巡り巡った。
「ふッざけんなッ!」
 ジオが血が滲む首筋を押さえ、言葉を絞り出していた。
 その声はまるで、張り裂けるように。何かに引き裂かれ、ほとばしるように。
「すべて嘘だッてのか! 今まで全部、嘘だったっていうのか!!」
 シドッグは笑った。本当に愉快そうに、こちらを馬鹿にするように、笑った。
「ああ、そうだ。誰がこんな王子様に喜んで付き従う? 先帝ラグリオフが遺した唯一の
落ち度、庶出子ナシラウス・エガ・ラディンスなどに」
「オマエ黙れッ!!」
 ジオの叫び声には、はち切れんばかりの憤怒がこもり、僅かに震えて響いた。
「庶出子か……」
 ずっと陰で言われてきた言葉だった。もう、聞き飽きてしまった言葉だった。
(まさか、シドッグの口から聞くなんてなぁ……)
 ナシルは虚ろに笑う。
 涙など出てこない。胸の痛みなど感じない。
 ぽっかりと体のどこかに穴があいてしまったようで──。
「『最後の絶望劇』とは、言い得て妙だな。シャルドゴール殿下も、面白い事をおっしゃる
ものだ」
 力のない体に、それでも容赦なく言葉は降り注ぐ。
 「黙れ、黙れ」と繰り返すジオの叫び声も、どこか空虚に響いた。
「最初は、半年だと聞いていたんです。正式な護衛官が見つかるまでの僅かな間だから
と、直属の上司に諭されましてね。そしたらずるずると、六年だ」
 シドッグはふと言葉を切り、どこか遠くを見つめるような仕草を見せた。
「思えば果てしなく長い時間でした。いつまで……そう、いつまでこの甘ったれた王子様
に付き合っていなくてはならないのかと、よく悩んだもの――」
「もう黙れッ!」
 ジオの激した声がシドッグを遮る。
「やかましい」
 元護衛官は不快げに眉を寄せると、気付いた時には既に剣先を閃かせ、ジオの肩先
を貫いていた。噴き出た大量の血液が飛散して、ナシルの頬に――そして薄汚れた大
地の上に、したたり落ちる。
 どう、と音を立ててジオが倒れ込んだ。痙攣して荒い呼吸を反復するその体を目前に
して、それでもナシルは動く足を持たない。
 冷え切った手、足、胴、頭。ただ頬にかかった赤い血潮だけが、焼けるように焦げるよ
うに熱い。
「ナ……シルッ! ここはオレが何とかする、だから逃げろッ!」
 ジオの体中に散った傷口から、盛んに血が流れ出していた。
 くぐもった声で離別を告げる教育係に、ナシルは虚ろに首を振る。
「……もういいよジオ。もういい」
 逃げて何になる?
 すべてを失ったこの足で一人逃げ惑って、一体何になる?
 この先に未来などないのだ。望むすべてが脆く崩れ去ってしまったこの先に、何も未
来など。
「逃げろナシル! ……頼むからッ!」
 魂を振り絞るような声と、懇願の眼差し。
 しかしナシルは口元に弱々しい笑みを浮かべ、言葉を返さない。
 ゆるんだ視界の中で、凄まじい唸りとともに、シドッグの足がジオの脳天に振り下ろさ
れるのが見えた。踏みつける長靴の下、ジオが一瞬瞠目して血を吐き、意識を失ってい
くのが目に映る。
 踵を返し今度はこちらに向かってくる元護衛官の姿を、ナシルはただぼんやりと見つ
め、その目で受け止めた。迫り来るその青年の顔はひどく歪んで見え――次の瞬間、
ナシルは首に衝撃を受け、まもなく意識は暗闇の底に沈んでいった。





第一章 W End



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