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「おかしーなァ……」
すべての発端は、馬車の中で唐突にジオが洩らした、この言葉だった。
ぼうっと物思いにふけっていたナシルは、出し抜けに耳に飛び込んできた声に、ぼん
やりと顔を上げる。眠気でちょっぴり霞みのかかっていた視界の中に、ごそごそと動くジ
オの姿が映り込み、きょとんと目を瞬いた。
「……どうかしたの?」
「イヤ、ちょっとな」
ジオはそう言ったきり、車扉のほうへ身を乗り出し目を外に向けたまま、動かない。
その見慣れた横顔がいつになく張り詰めているのを見て、ナシルは眉をひそめた。横
に座るシドッグの顔に視線を移し、その固く引き結ばれた口元に、尋常でない空気を感
じ取る。
「ジオ、見えるか?」
「イヤ、窓が土で汚れててダメだ。御者に確認したほうが早いな」
シドッグと簡潔に言葉を交わすと、ジオは今度は背後の内壁を叩き始めた。進行方向
に一人背を向けて座る彼の、車壁を通した向こうには御者台があるはずで。ナシルが
そうと気付くより先に、外から明るい声が返ってきた。
「えっと? どうかしましたー?」
サルトの声は風と轍の音に混じり、ひどく聞き取りにくい。
「御者、今馬車はドコ走ってる? 北の城壁までに、土の道はないハズだが」
対するジオは声を張り上げ、それは車中で乱暴なまでに反響した。
ナシルはまったくもって状況が分からず、ただ目を瞬かせる。それに気付いたか、横
から低い声が入り込んで来た。
「ナシル様、車輪の音です。これは石畳の上を走る音ではない」
言われて窓のほうへと視線を向けると、砂埃に汚れ切った窓ガラスが目に入った。諦
めて今度は耳を澄ませてみたが、聞こえてくる轍の響きにさほど違和感はない。とはい
え、アリデラの街路を知り尽くしているらしい頼もしき従者たちが言う なら、そうなのだろ
う。
「ああ、途中で土木作業してまして、回り道したんですよ。すみません、言う程のことじゃ
ないと思って」
サルトの慌てたような声が届いた。
「……本当か?」
ジオの声には、疑い咎めるような、強い響きがある。さらに言い募ろうと息を吸い込ん
だ彼を、しかし突然、シドッグの手が遮った。
「ジオ、待て。蹄の音が聞こえないか?」
その言葉に、車内は一瞬で緊迫して静まり返った。
車体の壁を隔ててナシルの耳に届いたのは、しかし車輪が転がるたびに立つ、軋む
ような轍の音と、こもったように響くどこか遠くの喧噪だけ。ただ規則的に足元から伝わ
り続ける振動が、沈黙に張り詰めた馬車の中で妙に大きくこだまする。
「確かに、聞こえる。一、二、三……八、九。九騎か」
ひどく冷静に認める声がして、ナシルははっと息を呑んだ。
眼前で、そっと目配せする従者たち。
「これは恐らく――」
「あァ、尾行られてるな」
「え……つ、つけられてるって!」
ナシルが思わず席から腰を浮かしかけたその時、耳をつんざくような甲高い音を立て
て、唐突に馬車が止まった。
反動でぐらりと傾いだ体をすんでに立て直した所へ、今度は何かが空を切る鋭い音
が、幾度も響き渡った。
思わず緊張した背中を休める間もなく、車体ががたがたと揺れ始めた。振動する視界
に眩暈を覚え、ナシルは慌てて壁を支えに手を伸ばす。
その時、再び空気を破る鋭い響きを耳にしたかと思うと、背後で何かがめりっと裂ける
音がした。
反射的に振り返りかけたナシルは、しかしそれの正体を目で確認することはなかっ
た。気付けば、耳を圧する轟音とともに、襟元を引かれて暗い馬車の中から飛び出して
いたのだ。
そして見えたのは、目を射るほどに眩い閃光と、ばらばらに砕け舞い上がる馬車と、
場違いなほどに澄み切った、青い空。
迫り来る地面が見え、ナシルは恐れ身を縮こませた。しかし襟首を引く頼もしい力によ
って、激突は免れる。着地した所で手の主を振り仰ぐと、いつになく峻烈な光を放つ目を
油断なく周囲に巡らせる、シドッグの姿があった。
「い、今のは何……!?」
「魔法の攻撃だ。気をつけろ、いきなり撃ってくるなんて、普通じゃァない」
先に飛び降りていたらしいジオが、矢を番えながらこちらに歩み寄って来るのが見え
た。
(じゃあ、敵が来たってこと……?)
胸中で確認した瞬間、どくんと心臓が脈打った。
ナシルは、緊張に震える手を腰元の剣へと伸ばしながら辺りを見回し、そこで視界に
入った光景にひっと息を呑む。
足元に、数え切れぬ程の量の木片が散乱していた。時折混じるガラス片と折れ曲がっ
た金具とが、かろうじてそれらが、元は馬車の本体であったことを告げて来る。
自分たちが乗ってきた馬車が、これ程まで跡形もなく壊されるなんて。もし、魔法攻撃
の時に馬車の中にいたら、自分はどうなっていただろう。とてもじゃないが無事ではいら
れなかった、いや、それどころか――
(死んでたかも知れない……)
ナシルは凄まじい恐怖に襲われ、顔を強張らせた。肩が細かく震え出すのを止められ
ず、ぎゅっと両手を握りしめる。
「ドコだ、ここ?」
震え上がる思考を遮断する低い声に、ナシルははっとして顔を上げた。訝しむジオの
視線を追うように、首を巡らせてみる。
(ここ、は……?)
見慣れた《商業街》の中心に比べ、華やかさの欠片もない、ひどく荒涼とした空き地が
目に入った。
アリデラの街は、《大内乱》で壊滅的被害をこうむって以来、人々の手でゆるやかに復
興が進んできた。だがそれも十分ではなく、未舗装で地面が剥き出しになった路地が
所々見受けられる。
しかしここは、そういった「復興が遅れている」と言い表せる場所とはまったく異質な、
何処かひどく切り詰められた雰囲気があった。
でこぼこと凹凸の激しい地面の上に人通りはなく、まばらに立つ見るからに粗末な小
屋にすら、人の気配がしない。よくよく目を凝らせば、あちこちに、無惨に打ち砕かれ、
灰燼と煤とをこびり付かせたまま捨て置かれた、真っ黒な石壁の残骸が見えた。だらり
と伸びきった草木から落ちる影は不気味で薄暗く、立ちこめる空気はひどく澱み切って
いて、何かが腐ったような鼻を刺す異臭がした。
「……《貧民街》か」
シドッグの言葉が予感を的中させて、ナシルは眉をひそめる。
アリデラの街の外れに、いわゆる《貧民》と呼ばれる人々が住む場所があることは知
っていた。しかし、今日自分たちが向かう先は、こういう所とは縁遠い場所にあるはず
で。
(どうして、こんな所に?)
はっと目を閃かせたナシルは、すぐさま首を巡らせた。今自分たちが《貧民街》にい
る、その理由を知っているのは一人だけだ。
木っ端微塵になった車体の散る路上に、うつぶせになって倒れる人影を見付け、ナシ
ルは身を乗り出した。足を踏み出しかけた瞬間、強い力で腕をつかまれ引き戻される。
「ナシルが見に行かなくてイイ。オレが行く」
番えた矢をそのままに、ジオが人影のほうへと足を向ける。
と、その時。不意に、後方で、勢いよく水が流れ落ちるような轟音が湧き起こった。
何気なく振り向いたナシルの視界に飛び込んできたのは、木の幹ほどの太さにもな
る、幾つもの巨大な水の奔流。
ひっと後ずさったナシルの体は再び引っ張られて宙に浮き、水流はそのすぐ足元を一
気に走り抜けた。明らかに自分たちに向けられた魔法攻撃――ぞっとするような悪寒が
体中を駆け巡り、ナシルは身を凍り付かせる。
逆巻く大波と化した濁流は、三人の横を通り過ぎた後、間近にあった小屋に激しくぶち
当たった。
凄まじい破壊音がして、その小屋は一挙に爆裂を起こす。
薄汚れた木壁、屋根、扉。元々粗雑な造りであっただろうそれらは、全てが粉砕され、
見上げる程の高みへと吹き飛んでいた。
(んな……!?)
シドッグに引き寄せられ、凶器と化して降り注ぐ木片から身をかばわれながら、ナシル
は言葉を紡げない。
馬車を、小屋を――そんな大きな物を粉々にし果てるような強力な魔法を、未だかつ
て見たことがなかった。
剣を握る手にじっとりと汗が滲むのが分かる。呆然とただ突っ立っていた足が、がくが
くと震え始めるのが分かる。
「大丈夫ですよ、ナシル様。問題ありません」
不意に聞こえてきたのは、包み込むような柔らかい声だった。振り返ると、いつもと変
わらない、優しい微笑みを浮かべたシドッグの顔がある。
今この時、これほどまでに聞きたい声と、言葉があるだろうか。
ナシルは大きく息を吐き、ぎごちなくも笑みを返すと、しっかりと剣を握り直した。
元は粗末な小屋だった粉片は、爆裂の際に起こった突風で、既に跡形もなく吹き飛ん
でしまっていた。残った少量のそれが折からの風に巻き上げられ、煙のような層を作り
出す。
そうして霞んだ視界の中、ナシルは不意に、ぼんやりと幾つもの人影が現れるのを見
出した。
次ページへ続く
*Illust by (C) ryoubou.org 2008*
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