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行きつけの貸し馬車屋に到着した三人を待ち受けていたのは、予想外の知らせだっ
た。
「え、ご主人いらっしゃらないんですか?」
「そうなのよ。馬車屋ギルドの会合があるとかで、朝早くから出かけてしまってねぇ」
店の奥まり、受付台の向こうに立つ女将は、ひどく申し訳なさそうに眉尻を下げてい
た。ナシルもつられてしょぼんと肩を落としながら、頬を掻く。
「そうなんだ。運悪いなぁ」
一行は馬車を借りる際、いつも店主に御者の役を頼むことにしていた。身分が身分と
いうこともあり、主人も快諾してくれていたのだが、今日はその彼が不在だという。
「ごめんなさいね、本当に……」
「うーん。どうしますか、ナシル様」
シドッグの問いかけにうむむと頭を悩ませていると、背後から声が飛んで来た。
「ンー、でも待ちゃあいいんじゃないの? オレら来るの知ってるハズだしさ、すぐ帰って
くるだろ?」
後ろを振り返ったナシルは、剥き出しの石敷の上に、どっかりと腰を下ろしたジオの姿
を見出した。だらしなく着崩した軍服姿の横に、愛用の長弓と矢筒とが無造作に置かれ
ている所を見ると、この教育係は既にくつろぎの体勢だ。
「待ってもいいんだが、早く帰らないとナシル様の勉強時間がなくなるだろ?」
そう言いながらシドッグは、ジオではなく、ナシルにちらりと一瞥を投げてきた。その視
線に、わずかに何か含みがある。
(……やっぱり、ばればれ?)
ナシルはひやりとして、肩をすくめた。
帰る時間が遅まると、おのずとその後の勉強時間も減るわけで。ちょっぴりそんな良
からぬ期待を抱いていたのだが、さすがシドッグ、見抜いていたらしい。
ナシルがむぅと唸っていると、女将が慌てたように身を乗り出すのが見えた。
「あ、それだったら、他の御者を連れていってはいかが? 信頼できる者を紹介します
わ」
女将の助け船に、シドッグの顔がぱっと明るくなるのが分かった。半眼でそれを確認し
たナシルは、こっそり小さな溜め息をつく。
彼は、もう少し勤務態度が不真面目でもいいような気がする。少なくとも、某教育係と
足して「二」で割った程度には。
「なァ、ナシルぅ」
「何?」
その教育係の呼ぶ声がして、ナシルはまたもや振り返った。目を向けた先で待ち受け
ていたのは、宝石箱もかくやと言わんばかりに煌めいた、翠色の双眸で。
「待とーよ、おやっさん。オレここにいときたいなァ。奥サンきれいだしさァ」
そう言って、だらりと締まりなく頬をゆるめるジオ。輝く眼差しはめくるめく期待と希望に
満ち、心ならずとも頷いてしまいそうな魅力に溢れていた。
つられて口元をゆるませかけたナシルは一瞬思いとどまり、顎に手を置いて考える。
(ジオの動機はちょっと問題だけど、ここは味方しといたほうが……いいかな?)
宮廷人にはあるまじき不純な動機だが、この場合、味方しておいたほうが得策ではな
いだろうか。
じっくりそこまで計算した後、ナシルはふわりと笑って口を開いた。
「うん、まあさ、急ぐこともないと思うし、おじさん待と――」
と、ナシルがそこまで言った、ちょうどその時。
突然、ガンッと床を打ち据える、鋭い物音が立った。
びくりと肩を震わせたナシルは、恐る恐る音がしたほうを振り返り、途端に表情を凍り
付かせる。
そこには案の定と言うべきか、静かに憤怒の炎を燃やす、一人の護衛官の姿があっ
た。
くっきり眉間に刻まれた皺と、異様なまでに剣呑な光を放つ双眸と。そして、音の元凶
だろう、床に打ち下ろした長剣の柄頭にゆっくり片手を添える姿からは、いつになく不穏
な空気が漂っていた。ぴりぴりと肌を切り裂くようなこの緊張感は、尋常ではない。
「いい加減にしないと……怒りますよ?」
その声は、頬をなでる春風のように穏やか。しかし顔に浮かぶのは、絶対零度の微笑
みだった。突き刺さるようにして立った古ぼけた長剣も、その持ち主も、もはや暗黒の空
気をまとってそこにある。
もう怒ってるじゃないかという反論を喉元で押しとどめ、ナシルはこくこくとうなずく動作
を見せた。そして、いつの間にか立ち上がっていたジオと一瞬顔を見合わせた後、息せ
き切って駆け出す。
「ナシル、オレの代わりに名誉の犠牲になって散ってくれ!」
「じゅ、従者なら主人を優先するのが普通だろー!」
教育係と組もうが、シドッグの氷の笑みには勝てやしない。
醜いなすり付け合いを続けながら、まろぶように出口へと馳せる二人は、その後ろで
護衛官が満足げに微笑んだ事など、終ぞ気付くことはなかった。
※
「主人の知り合いでね。この前来たばっかりなんだけど、彼、腕は確かよ」
そう言いながら現れた女将に続くようにして扉から出てきたのは、一人の小柄な青年
だった。
とはいえ、年相応と言うにはいささか背丈の足りないナシルには、それでも見上げる高
さである。目をぱちぱちさせながら見つめていると、相手はこの辺りでは珍しい、夕焼け
空のような薄紅色の目ににっこりと笑みを浮かべ、一行のほうへと近づいてきた。
「こんにちは、王子様。一度お会いしてみたかったんだー。ぼくサルトっていいます。よろ
しくねー」
「あ、こ、こんにちは。えっと、こちらこそ。今日はよろしく!」
いつも御者を頼んでいる店主は、いかにもこの道三十年といった丸太のような腕をし
た男だったから、同じような感じの人間が出てくると思い込んでいた。
想像では雄々しく刈り込まれていた焦げ茶色の髪は、肩より長く、襟足の所で細く結ば
れていた。武張っているはずだった顔はどちらかというと細面で、少年と表現してもおか
しくはないだろう童顔は、こんな風に柔和な笑みが浮かぶと、尚更印象が若やぐ。
「ま、いつもおやっさんに頼んでたんなら、ちょーっと不安だとは思うんだけど、これでも
訓練積んでるからさ。任せてもらって大丈夫だよ」
サルトと名乗った青年は、そう言って、店主に比べれば華奢にも映る二の腕を、とんと
んと叩いた。
(……何だか、ずいぶんと気安い感じの人だなぁ)
今までに出会ってきた者たちは、ナシルが王族と分かると、必ず一歩引いた態度にな
った。本来は対等に接することすらないはずだし、それが当然だと分かってはいる。しか
しナシルにはそれが少し寂しく思えていて、だから、サルトの態度は意外で、そしてもの
すごく嬉しいことだった。
「じゃ、早速馬車出してくるよ。……っと、奥さーん、ランドー馬車の二頭立てでいいのか
なぁ?」
返事も待たぬせわしさで、サルトはきつく轍の残る石畳の道を歩き出していた。
向かう先はどうやら、店の真横に建てられた、巨大な馬小屋である。一行が見送る
中、振り返って馬車種を確認してきたサルトに、女将がうなずくのが見える。
そしてナシルは、先刻から珍しく沈黙を守っている従者たちに目を向けた。
腕組みをしながら立つジオの、その切れ長の双眸がどこか胡乱げに見えて、ナシルは
首を傾げる。
「ジオ、どうかした?」
そのジオは、しばらく眉をひそめたまま押し黙っていたが、おもむろに口を開いた。
「胡散臭くないか?」
「何が?」
「アイツ。サルトとかいうヤツ」
ナシルがきょとんとするのに、シドッグも一瞬目を見張るのが分かる。
「だってさァ。見たか、さっきのいかにもって感じの営業面! 初対面の人間に、しかも
王族相手ににこにこ笑いかけるなんて、よーっぽど腹黒くないと出来ないね」
ジオが言い切った途端、横から盛大な溜め息が入り込んできた。
「男相手だと、いつもこれだな」
シドッグの秀逸過ぎる合いの手に、胡散臭いのかなぁと頭を悩ませていたナシルも、
遅れてようやくぽんと手を打ち合わせる。そういえばこの教育係は、貸し馬 車屋の主人
と初めて顔を合わせた時も、同じように不満げにしていたのだった。
まだぶつぶつと不満を言い続けているジオに飽き、横目でシドッグをうかがうと、彼は
既に大きくそっぽを向いて、華麗なる聞き流しを決め込んでいるようだった。
ナシルは仕方なしに、
(そういう君も、僕に初めて会ったとき、ものすっごい作り笑顔してたけどね?)
と、胸中で素早く反駁して済ませる。
こうして、手のかかる教育係とのつきあいの長い二人はこういう時の対処法を心得て
いたわけだが、残念ながらこの場にはもう一人いるのだった。
「し、信用できないかしら? ごめんなさい、どうしましょう……!」
女将がおろおろし出すのに、ナシルも慌てふためいた。
「え、えーと……」
「イヤ、だいじょーぶですよ。奥サンがそこまで言うなら問題ない。だろ? お二人サン」
いきなり会話を割り込ませてくる、教育係。
「そ、そう? 本当に大丈夫なの?」
「ええ、モチロンですとも!」
先刻までの不満顔はどこへやら。案の定、すぐさま溢れんばかりの笑顔に切り替えた
ジオの脇腹に、ナシルはこっそり手刀を叩き込んだ。短く「うお」と声を上げたジオの背
中に、今度はシドッグが風のような速さで肘鉄を振り下ろすのが見えたが、今回は見て
見ぬフリだ。
と、その時、もはや聞き慣れたジオの悲鳴が響く向こうに、馬のいななきが聞こえた気
がした。
ゆっくりと顔を向けた先に、こちらへ徐々に近づいてくる巨大な影が目に映る。目隠し
された二頭の馬に、幌のついた四輪の車体――その先っちょに付いた御者台の上に
は、片手で馬を御しながら手を振ってくる、サルトの姿があった。
ガラガラと音を立てながら寄って来た馬車は、目の前に来てようやく動きを止めた。す
ぐさま駆け寄ったシドッグが、慣れた手つきで車体の扉を開き、こちらを向いて先を促し
てくる。
「どうぞ」
「ありがとう。お先に」
ナシルは踏み段に足をかけると、身軽に馬車の中へと乗り込んだ。王室所有の馬車
より格段に狭い車内だが、ナシルにはもう慣れた物だ。器用に体をひねり、しっかと席
に腰を落ち着けたところで、残る二人も次々に乗り込んでくる。
「じゃあ走らせるよー」
車扉を閉めたところで短く馬のいななきが聞こえてきて、馬車はゆっくりと動き始め
た。微かな振動が小刻みに足元から伝わってくる。
「へェ。見かけによらないモンだねェ」
目の前に座るジオの呟きに、ナシルも大きく相槌を打った。
馬車の操縦は、これがなかなか難しい。単身では見事な手綱さばきを見せる騎士たち
ですら、気紛れな馬を何頭も完璧に御せるようになるには、時間がかかるのだ。それを
客に僅かな揺れを感じさせるだけでこなしてしまう所を見ると、女将の言う通り、サルト
は腕は確かなようだった。
「んーとね、今日は石工さん達の生活場に行きたい!」
「というと、北の城壁近くの?」
「うん。修理が始まったって聞いたし、見に行きたいんだ。サルトさん、よろしくー」
「ほーい」
返事と同時に、馬車が軽い軋みを立てながら、横へと逸れていくのが伝わってきた。
(今日は誰と会うかなぁ?)
高まる期待に、胸が弾んでくる。
見知らぬ誰かとは、必ず出会えるだろう。大事なのは、その時その相手とどんな時間
を過ごせるかということだ。
(それで、友達が出来たらいいんだけどなぁ)
ナシルの一番の願いはこれだ。シドッグとジオの間柄のような、気の置けない友人関
係を築ける人間と出会うことが、今一番の望みだ。
(いい出会いがありますように……)
ナシルの思いを乗せて、馬車は走る。
次ページへ続く
*Illust by (C) ryoubou.org 2008*
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