石像を見るたびに脳裏に浮かぶあの凄惨な光景が、現実に見たものなのか、ただの
夢の中の出来事なのかは、はっきりしない。
(でも、あれが本当のことだったとしたら……)
 もしも本当のことだったとしたら、それは間違いなく、史上最も悲惨な事件とされる、あ
る内乱のなかの出来事に違いない。
 俗に《大内乱》と称されるそれは、ナシルが生まれてまもなく起きた、大反乱を指す。
 ナシルの父たる先王ラグリオフと、その即位を阻もうとする者たちが、数年にわたって
衝突し合ったこの事件は、国中を巻き込んで、甚大な被害をもたらした。それは王国最
高で最大の防衛力を誇る王都アリデラも、例外ではなく。
 今日のように澄み渡った青空がよく似合うこの街が、実は八年前まで戦火のさなかに
あったことなど、誰が信じられるだろう。ナシルが物心ついて初めてアリデラを見た記
憶、それはまさに完全に廃墟と化した王都の姿だった。
 住居の煉瓦壁にこびりついた焦げ跡、とろけて変形してしまった鋼鉄の看板に、破損
したまま塞がれていない石畳……。弾む陽気のなか目を凝らせば、あちこちに生々しい
爪痕(つめあと)が見出される。当時を知る者は謂う、あの《大内乱》はいつまでも醒め
ぬ悪夢のような出来事だった、と。
 やっとそのほとぼりが冷めたと思われた頃に、先王ラグリオフが逝去。統治者の不在
と政局の混乱から、アリデラの復興は遅れた。華やかなりし《始まりの都》は、 幾年もの
間、廃墟同然の姿を晒していたのだ。
 シドッグの背中を追いながら、ナシルは件の石像の横を通り過ぎた。
(それで、あれが本当だったら、あの男の人は一体誰なんだろう……)
 ――あの、冷酷で猛き漆黒の傍観者は。
 ぼんやりと考え込みながら歩いていたナシルは、ふと、目の前が陰ったことに気が付
いた。訝しんで顔を上げた瞬間、何か固いものに激しくぶち当たる。
「いたたた……」
 盛大につぶれた鼻を押さえながら、後ろへとよろめいた。すると、揺らめく視界のなか
に、立ち尽くす紺色の背中が映った。
「シドッグ?」
 見慣れたその背中が、なぜか今は緊張をはらんでいるように見える。
 ナシルの呼びかけに、応えはなかった。
 直ぐに異変を察したらしい――ジオがナシルの背後から手を伸ばし、弓幹の先で紺色
の動かない背中を軽く突いた。
「どうした」
 ひそめられた低い声に反応してか背中の感触に気付いてか、シドッグははっとしたよ
うに肩を揺らした。まるで時が止まっているかのようにゆっくりと振り返ってきたその顔
が、心なしか青白い。僅かに紫ばんでいるようにさえ見える唇が開かれるのに、ずいぶ
んと時を要した。
「――悪い。少し、立ちくらみを起こしたらしい」
 ぽつんと漏れ聞こえた一言に、ナシルは眉をひそめる。
(シドッグが『立ちくらみ』?)
 その二つは、ナシルの中では最も結びつかない単語の組み合わせの一つだった。し
かし、同じように訝しむと思っていたジオは、神妙な顔をして、意外なことを口にした。
「寝不足じゃないのか」
(『寝不足』……?)
 片手で顔全体を覆うようにしたシドッグと、彼を心配そうに見るジオとを、ナシルは交互
に見比べた。そして何だか訳知り顔のジオの袖を引っ張って、目で理由を問う。
「ああ、ナシルは知らないのか。実はシドッグは――」
「言うな!」
 シドッグが、いつになく鋭い口調でジオを遮った。それは脇を通りすがっただけの人間
さえ首を竦めてしまうほどの、荒々しい声。
 ナシルはその勢いに一旦は肩を震わせたが、彼が再び手で額を押さえるのを見て、
一気に眉を逆立てた。
「シドッグ」
 目の前のうつむいた顔を、その澄んだ青い瞳で睨むようにして言う。
「言ってよ。どういうこと?」
 言い逃れは許さない。ナシルが厳しい視線を向けた先で、シドッグはしばらく逡巡する
かのように目を揺らしていたが、しかしそれでも首を縦に振ることはなかった。
「……言えません」
 心まで閉ざしたような、頑なな声音。
 シドッグは、一度こうと決めたら頑として譲らない。その性格をよく知っているナシル
は、一度下を向いて唇を噛みしめた。それから決然と顎を上げ、憂いを乗せた翠色の
瞳を、真っ直ぐにとらえる。
「言ってよ。僕に関係のあることなんでしょ?」
 今度はゆっくりと、一つ一つの言葉に力を込めた。
 少し揺らいだかのように見えた眼差しに、さらに畳みかけようとしたナシルは、ふと頭
の上に置かれた手を察して、口をつぐんだ。ゆっくりと振り仰いで、手の主を見やる。
「言えよ、シドッグ。お前も相当頑固だけどさ、ナシルもソレに関しちゃ負けてない。時間
が延びるだけだ」
 いつも軽薄げに笑う男は、そのとき今まで見せたことがないくらい真面目な顔をしてい
た。
「それに、今の状態は決してナシルの為にならない」
 独白めいた響きを含んだそれは、しかしシドッグの表情を大きく動かした。
 その顔が一瞬苦しげに歪み――そしてゆるやかに元に戻る。シドッグの唇が一つ大き
な溜め息を漏らすのを、ナシルは周囲の喧噪のなかで微かに聞き取った。
「……寝室外の見回り、剣の鍛錬、あとナシルに届く大量の書簡の分別とかあったっ
け?」
 話し始めたジオに、今度はシドッグも軽くうなずくだけで、止める気配を見せなかった。
 しかし、どういう意味だろう。羅列された言葉に、ナシルは見当がつかない。
「ナシル。これ、シドッグがいつやってる仕事だと思う?」
 言われて気が付いた。それらはすべて、シドッグが夜にやっている仕事だ。
 はっと顔を上げたナシルは、ジオの顔にいつもとは違う、柔らかい笑みを見付ける。
「……じゃあ、何でそんな時間にやらなきゃいけないんだと思う?」
 ナシルには、もうすべてが分かっていた。普通なら昼間に済ますことのできる仕事。そ
れを睡眠時間を削ってまで夜にやらなくてはならない理由なんて、一つしかない。
(僕は何も知らなかった。今まで全然気付かずにいた!)
 シドッグは、己を犠牲にして自分のわがままに付き合ってくれていたのだ。ずっとずっ
と――そう、それこそアリデラの散策を始めた当初から。
(僕は、何て事を……!)
 ナシルは強く強く唇を噛む。
「シドッグ、ごめん。僕、ずっと気付かなかった……今すぐ、お城に戻ろう」
 ナシルは今日、本格的に街に入り込む前に、自分の愚かさに気づけたことを感謝し
た。自分のやっていたことの馬鹿さ加減を知ることができたことを、せめてもの救いと感
じていた。
 すっかり下に落ちてしまった視線をそのままにして、ナシルは二人を促す。
 聞こえてくる喧噪が耳に痛かった。馬車や荷車が通った跡を残す石畳が、妙に目に焼
き付いて離れなかった。
「――だから黙っていたんですよ」
 次の瞬間そっと耳に届いた優しい声は、たちまちに周囲の喧噪を掻き消した。
 ナシルは顔を上げる。
「知ったら、あなたはきっとそう言うだろうから。だから黙っていたんです」
 シドッグは、その涼しげな目元をゆるませて、視線を周りの騒々しい市場のほうへと向
けていた。
 ナシルは、そんな彼を見つめることしかできない。
「アリデラが以前どういう状態だったか、覚えておいでですか?」
「あ、うん……」
 人の住む所とは思えない、ほぼ完全な焼け跡と化した街。あれは忘れようとしても忘
れられる光景ではない。
「地獄絵とは、ああいうものを言うんでしょうか。でもそんな所なのに、『街に下りてみん
なの様子が見たい』とおっしゃった時のことを、私はよく覚えています。そしてそ の事を
――」
 シドッグは僅かに言葉を切った。そしてその翠色の優しい眼差しが、ゆっくりとこちらに
向けられて来る。
「その事を、私は生涯、きっと忘れることはない」
 言い切る口元がほころんで、ナシルは何故だか鼻の奥がつんとした。
「あなた自身は、単に情に流され良心に従っただけだと思いますが――」
 ナシルは、シドッグのせりふの途中で顔をしかめた。
(『単に情に流され良心に従っただけ』なんて、何も深く考えない能無しみたいじゃないか
……)
 敢えて否定するつもりはないが。
「それが偶然にも、アリデラの人々の心を救ったんです。現に、散策を始めた頃より、
人々の表情が明るくなっています」
「え、そ、そう?」
 ナシルは頬を赤く染め上げた。
 散策という名の、それは慰問に等しいもの。ナシル自身はただ、シドッグとジオの的確
な助言に従って、市政の責任者に口出ししたことがあるに過ぎない。
 とはいえ、通常なら自分をからかうような事しか口にしないシドッグが、自分を褒めた。
天と地がひっくり返る以上にない事だと思っていたが、現実に起きてしまった。
 何だかすごく嬉しい。
「――とまぁ、これは冗談ですが」
「……え!?」
 ナシルは目を剥いた。
「もちろん、冗談ですよ。本気にしたんですか?」
 こちらを見返してくるシドッグの翠色の双眸が、意地悪く笑う。
 ナシルは声を張り上げた。
「本気にしたよ!」
「私があなたを高く評価する訳がないじゃないですか。引っかかりましたね、甘いですよ」
「嘘つきっ!」
「『嘘つき』で結構です」
「嘘をつくのは泥棒の始まりなんだぞ!」
「そんな事知ったことではありませんね。まぁ、それはともかく」
 不意に、シドッグの口元が引き締まった。
「さすがに今までのように毎日毎日というのは遠慮したいですが、私は別にアリデラ散策
を続けても構いませんよ。アリデラの人々の様子が見えて、勉強になります」
「え、でも……」
 ナシルは、シドッグが自分の為に無理しているのだとしか思えなかった。
「『え、でも』じゃありません。私がそう言ってるから、そうなんです。それに、何を言い出
すかと思えば、『お城に戻ろう』? 冗談じゃないですよ、あなたは鈍感で図太い性格な
んですから、その通りに行動してください。こっちの調子が狂ってしまいます」
「ず、ずず『図太い』!?」
 ナシルは今まで真剣に考えていたことなどすっかり忘れて、怒鳴り声をあげた。
「シドッグのほうが図太いだろ!」
「いえいえ。百人に聞けば百人ともあなたのほうが図太いと答えるに決まってます」
「どこから来るんだよ、その自信!」
「自信じゃありません。それが真実なんですから」
「オ、オイ、ちょっとお二人サン、近所迷惑……」
 どこかから、虫の羽音のような雑音が聞こえてきたが、とりあえず無視だ。
「真実だって? そんな事あり得ないっ!」
「いえ、私が言ってるんですから、真実でしかあり得ませんよ」
「オイオイオイ、聴けってば」
「シドッグの横暴ーっ!」
「横暴なのはあなたでしょう」
「……ハァ。こんな手がかかる主人と同僚を持って、オレってば不幸せモノー」
 虫の羽音は、今度はなぜか深い溜め息混じりで耳に届いた。
 瞬間、ナシルは飛び出かけていた言葉を呑み込んだ。見ると、シドッグも憮然とした顔
でぴたりと口を閉ざしている。
 それから二人は、いつの間にか横に来ていた男に、同時に首を向けた。
「『手がかかる』のはお前だ!!」
 ナシルとシドッグの大声が、ぴたりと重なる。
「傍迷惑な教育係をもって、不幸せなのはこっちだよ」
「まさかこいつに『手がかかる』なんて言われるとは、一生の不覚」
 ぶつぶつと呟きながら、二人して肩を並べて歩き始める。
「コラコラコラ。こんな紳士たるに相応しい男をさして『手がかかる』なんて――」
 背後から聞こえてきた声に呆れ果て、さらに足を速める。
 すると靴音が一つ、慌てて追いかけてきた。
「ほ、本当に待てッて! ていうかシドッグお前、立ちくらみは!?」
 後ろの喚き声は、貸し馬車屋の前に着くまで続いた。





第一章 V End



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