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三重もの巨大な城郭の内側に、民家や塔が軒を連ねて建つさまは、しばしば《とぐろ
巻く大蛇》に喩えられた。《大蛇》の懐たる街路は、すべて華やかな衣裳の人々と馬車と
に埋め尽くされ、沸き立つ声と息づかいは、空をも呑み込む喧噪となる。
王国随一の武勇と叡智が此処にあり、巨万なる富と権力が此処に集う。
この世のありとあらゆるものが、寄り集まり、ひしめき合い、そして新たな秩序と文化
を生み出す場所。
それが《始まりの都》――王都アリデラ。
※
王国一の城下街は、今日も賑やかな活気に満ち溢れていた。
立ち並ぶ人家の合間を縫って伸びた道は、どこもかしこも大勢の人でごった返し、そ
の熱気たるや、はや夏の来訪かと錯覚せんばかりだった。連なり立つ家々が色とりどり
なら、行き交う人々の衣裳も色とりどり。お店の天幕に看板、さらにはその店頭に積ま
れた野菜や果物までもが、その華やかさに色を添える。
「いらっしゃい、いらっしゃーい! 今なら新鮮野菜が大安売り!」
「カレドナ産の白ぶどう! 一口たべれば皆うっとり。夫婦安泰家族円満、間違いなしだ
よ!」
店先で繰り広げられる呼び込み合戦は、もはやアリデラの名物だ。石畳を叩く無数の
靴音だって、街中にこだまする大聖堂の鐘の音だって、商人たちの勢いには敵いはしな
い。
ちょっとひらけた通りに出ると、聞こえてくるのは弦楽器のすべらかな旋律だ。王都の
繁栄を称揚する詩や、遠く西の地で果てた騎士の物語が、吟遊詩人の朗々たる歌声に
乗って、人々のざわめきに溶け込んでゆく。
アリデラの街が持つ、踊り出すような陽気。それに触れる瞬間が、ナシルは何よりも好
きだった。
煤で汚れた屋根や、色の褪せ始めた煉瓦壁、所々欠けて丸くなった敷石に、その上で
舞い上がる細かな立ちぼこり。街路を埋める人々の顔には豊かな表情が浮かび、笑い
声に怒声、馬車や荷車を引く音が混ざりあって、市場ならではの騒音を刻む。すべてが
雑多で整然さに欠けていて――だからこそ、心の底から胸が躍るのだ。
「いつも通り、まずは貸し馬車屋から行きますか?」
「うん!」
「おォ、そりゃいいね。ちょうど足が疲れ始めてさァ」
「……お前、本当に鍛錬が足りないんじゃないか?」
「失礼だねェ。鍛錬は毎日ちゃーんとやってるって。ん? おぉッ、向こうの路地に美女
発見!」
「……」
三人が歩いているのは、アリデラでもっとも賑わしい《商業街》の一角である。
ここの人混みを初めて見た者ならば、思わず尻込みしてしまうだろうが、三人にとって
はもう慣れたも同然。路上を横切る歩行者を巧みに避けながら、前へ前へと進んで行
く。
特に、王宮に近い大通りなどは、すっかり馴染みになってしまっていて――
「あっ、おはようございます、ナシラウス様!」
「おはよう!」
「シドッグさん、あとで寄ってくれよ。いい酒が手に入ったんだ!」
「本当ですか? 是非寄らせていただきます」
「何でシドッグだけ? オレは!?」
「文無しに飲ませる酒はないよ!」
「えェー!」
通りかかれば、こんな風に次々と呼び声がかかり、あっという間に人々に囲まれてしま
う。
彼等はいつも、実に様々な話を聞かせてくれた。隣家で赤ちゃんが生まれたやら、昨
夜向こうで火事があったやら、最近税金が上がって困っているやら。ただ相槌を打つこ
としか出来ないことが多いが、それでも楽しそうに笑ってくれると、こちらまで嬉しくなって
くる。
ここ《商業街》は、実はアリデラの中心たる王宮からは、遠く隔たった場所にある。王
宮と、それを囲むように広がる《貴族街》、さらにそれら全体を護るように流れる幅広い
河を経て、ようやくその端にたどり着く。そこまでに通り抜けねばならない門の数は、優
に二十を超えるという有様だ。
そんな長々とした面倒な道のりを、それでも毎日のように通ってしまうのは、やはりこ
の街が、この街の人々が大好きだからだ。
「ナシル様、あまりきょろきょろなさらないで下さい。あなたは何もない所で転ぶ天才なん
ですから」
興奮でひっきりなしに首を巡らせている所に水を差され、ナシルはぷうっと頬を膨らま
せた。
「僕だって、何もない所じゃ転ばないよ!」
「でも、よく転ぶのは事実でしょう? 昨日だけで何回転びました?」
「うぅ……」
六回、いや、床に就く直前に寝台の足に引っかかったのを含めれば、締めて七回だ。
さすがに、その回数が人の平均を大きく上回っているのは分かる。
「アリデラの散策を、馬車を借りてするようになったのも、それが一番の原因ですから
ね」
「え、本当!?」
驚いてシドッグの顔を見上げる。自分の余りにひどい転び具合をちょっぴり反省しか
かったナシルに、シドッグはそれはそれは楽しそうに笑った。
「嘘です」
見慣れた翠色の瞳に浮かぶのは、まるで悪戯っ子のような微笑みだ。
追い打ちに、くっくっくっと、背後からジオのおかしがる声も聞こえてくる。
ナシルはせっかくしぼんでいた頬を、またぶすっと膨らませる羽目になった。腹立ち紛
れに石畳の道を蹴ろうとして靴がひっかかりかけ、慌てて体勢を立て直す。
しばらく鼻息荒く歩みを進めていたナシルだったが、不意に思いついたことがあって、
ゆるやかに表情を解いた。
(――ああ、そっか。馬車は僕の安全のためだったっけ……)
アリデラの散策は、元はと言えばナシルが駄々をこねて始まったことだった。
「街の中を見たい」と言ったが聞き入れてもらえず、一人きりで抜け出そうとすることが
増えたため、シドッグは渋々ながら同行してくれるようになったのだ。
王宮、《貴族街》に近いこの辺りならまだいい。しかし、外れに近づくに従って、治安が
悪くなるのが大きな街の常だ。そんな場所で余り顔を晒すべきでないというシドッグの意
見から、街馬車を使うことにしたのである。
三人ともフードの付いたローブを着込めばいいのかも知れないが、シドッグがそう言う
と、これにはジオが猛反対した。不審すぎてかえって目立つし、何より背後が見えにくい
のだと言う。射手は視界が広いほうが断然有利だということはナシルも知っていたし、シ
ドッグもすぐに承諾した。
まあ、この件はその後が悪かった。ジオは、「視界が広いってことは、たくさんカワイイ
女の子見付けられるってコトだもんねェ」と言って、シドッグにぶん殴られたのだ。
そう、そして今、こうして何気なく歩いている時でさえ、二人が細心の注意を払っている
ことを、ナシルは知っていた。
王宮内では立場上、決してナシルの前に立たないシドッグだが、アリデラ散策のときは
必ず一歩前を行く。ナシルが道端で人にぶつからないで済んでいるのも、彼がさりげなく
道を拓いてくれているからだと気付いたのは、ごくごく最近のことだ。
ジオも、その性格を考えれば、発見した美女たちに声を掛けに行きたいだろうに、少
なくともナシルがいる時はそんなことはしない。彼は、そこにいるのが当然であるかのよ
うに、ただナシルの後ろを歩く。
(僕のワガママなのになぁ……)
何だかとてつもなく目頭が熱くなってきた気がして、ナシルは鼻をすすった。じわりとに
じむ視界に狼狽して、ゴシゴシと目をこする。すると突然、頭上から声が落ちてきた。
「わっるい、ナシル。笑いすぎたかも。ゴメン、泣くほどとは思わなくてサ」
ついでに後ろから、ぽんぽんと軽く頭を叩かれる。
驚いて振り返ると、ばつが悪そうに眉根を寄せたジオの顔があった。
「え、ち、違うよ違うよ!」
わたわたと手を振りながら前を見直すと、今度はシドッグの心配げな眼差しに行き当
たった。ナシルは慌てふためく。
「ち、違うんだよ二人とも! え、えっと、うんと、何かちょっと嬉しかっただけで」
「『嬉しかった』? 何が」
「えっと、えっと……」
二人のふるまいが、とはさすがに照れくさくて言えるはずもない。集まる二対の視線
に、ナシルは頭がかぁっと熱くなるのが分かった。
火照る両頬を広げた手のひらで隠しながら、慌てて話題転換の材料を目で探し――
ナシルはその時初めて、いつの間にか通りを抜け、行きつけの貸し馬車屋のある広場
に差し掛かっていることに気が付いた。これ幸いと、早速声を張り上げる。
「ほ、ほら、《中央広場》に着いたよ! 馬車屋さんももうすぐっ!」
それでもなお訝しげにしている二対の視線を振り払おうと、ナシルは眼前のシドッグを
追い越し、彼より先に広場へと躍り出た。一気に開けた視界の端に、即座に追いついて
きた紺の軍服姿の背中が収まる。
「いきなり走り出さないでください。びっくりしたじゃないですか」
そう言って振り返るシドッグの翠色の目は、いつになく真剣だ。
「えへへ。うんっ!」
ナシルは素直に元気よくうなずいてみせた。
そして一行は、《中央広場》――アリデラの《商業街》のなかでも最も栄えている大広場
である――のなかをゆっくりと歩み始めた。
先刻まで歩いていた大通りとは、まるきり比べ物にならない数の屋台が広場のなかに
散在し、そのどれもがいっそ突飛なほどに華やかだった。合間合間をすり抜けゆく人々
の数も、それに応じて大きくなる騒々しさも、ここは他とは桁違いだ。
耳を圧する騒音と鼻につく生魚の匂いに顔をしかめながら、ただシドッグの背中を追っ
ていたナシルは、不意にその背中越しに、見慣れた黒い影を見出した。
《中央広場》の中心にそびえ立つそれの名は、《勝利の像》。
うきうきと弾むような明るさに包まれたこの大広場で、ただ一つ、決して消えることのな
い漆黒の影を落とすその巨大な石像は、片翼をもがれた竜の形をしていた。
蜥蜴に似た、それでいてそれよりも格段に大きくしなやかで屈強な背中に、なぜ片方
の翼が欠けているのかは、分からない。しかしナシルには、その像を見るたびに思い出
す、一つの光景があった。
獰猛な渦を巻き、うねるように街並みを呑み込んでいく紅蓮の炎。
逃げまどう人々も、犬も屋根も扉も塵芥(ちりあくた)も、皆一様に猛火の舌に絡め取
られ、瞬く間に消し炭と化した。煉瓦壁や石畳さえもが圧倒的な火力に燃え崩れ、どろり
と熔けた窓ガラスが、火柱となったそれらに注ぎ落ちる。
街であったはずの空間は、完全に火の海に没し、ありとあらゆるものが、揺らめき立
つ鮮やかな真紅をその身に映す、惨たらしい残骸に変じていた。
そして、空までも呑み込まんと立ち上る灼熱の炎――その残忍な手の届かぬ高みに
は、眼下の赤とは一線を画すようにして闇にとけ込む巨大な影があった。
蜥蜴に似た巨躯に蝙蝠に類する双翼を背負うそれは、血と炎の破壊劇にもっとも似つ
かわしい存在。真下に広がる赤い惨劇に映えて、それはぞっとするほどに艶やかだっ
た。
天を駆ける孤高の生き物とされるそれの背中には、しかし一つの人影があった。闇よ
りも濃い漆黒の髪を風にさらし、同色の鎧で丈高く引き締まった身を包んだ、一人の
男。巨大な竜をいとも簡単に御するさまは、武人としての域を遙かに超越していた。
その男の一挙一動を、颯爽として隙がなく雄々しいと、軽はずみに称賛してよいもの
か。竜の背にまたがるその男は、同じ命を持つ者たちが火炎に呑まれ黒炭に変じていく
様を、ただ高みから見物しているだけだった。断末魔をあげる人々を助けることも、竜
が吐く灼熱の息吹で追撃をかけることもなく、ただそれらを見下ろしているだけなのだ。
燃え盛る炎を映した目は、背筋が凍り付くほどに冷酷で。
真紅の災禍と漆黒の傍観者――それは余りにも鮮烈な、赤と黒。
次ページへ続く
*Illust by (C) ryoubou.org 2008*
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