「――ハハ、ナシル。お前はまたシドッグに叱られているのか」
 その時、遠くから笑いを含んだ声が聞こえた。
 忘れるはずもないその声に、ナシルはぱぁっと顔を輝かせる。
「兄様! おはようございます!」
 横で、シドッグが片膝立てで拝礼し、アシュカが深々と頭を下げたのが分かった。
「おはよう。お前は今日も元気そうだな」
 歩むたびに、蜂蜜色の髪がさらりと風に流れる。色白で繊細な顔立ちから、少々頼り
なさげに見られがちだが、その切れ長の青い双眸には、威風堂々たる気迫のようなも
のが具わっていた。いずれ王者となる者の風格とでも言えばいいか。
「うんっ!」
「これからアリデラの街に下るのだろう?」
「うん、そうだよ!」
「毎日すまないな、シドッグ。ナシルはさぞ手がかかるだろう」
「いえ、そのような事はございません」
 ナシル相手ならば正直に『手がかかる』と答えるだろうに、思ってもいないだろうこと
を、シドッグはさらりと言ってのけた。
(僕には、ぶつぶつ文句言うのにさ!)
 ナシルは、頬をぶすっと膨らませると、頭を垂れたままのシドッグの横顔を見つめた。
 シドッグが正直に言えば、それは無礼になるということを、ナシルも重々分かってはい
るのだが、それでも何となく納得のいかないものがあったのだ。
「うん? ジオはいないのだな。どうした? "はばかり"にでも行ったか」
 ナシルの異母兄トラヴィヌスは、ここでようやくジオがいないことに気づいたようだっ
た。
「ううん。僕がいつも使ってる食堂あるでしょ? そこの掃除してくれてる」
「何……? あのジオが自主的にか?」
 トラヴィヌスの目が見開かれた。
 ジオの怠慢さは、こんな所まで有名なのだ。ナシルは思わず苦笑してしまった。
「いえ、罰ゲーム中なんです」
 シドッグがはっきりと否定する。
 ナシルは、またさらりと言ってのけた彼に、ぽりぽりと頬をかいた。
(まさか、シドッグの名前使って"娼家"に行ったとか言う訳にもいかないしね……)
 内心、シドッグの機転に感謝する。
「そうか、なるほど」
「あら、あれは罰ゲームでしたの?」
 何事もなく平和に通り過ぎようとしていたジオの件に、アシュカの声がストップをかけ
た。
(な、何?)
 頬が引きつるのを感じながら、ナシルは彼女の言葉を待つ。
「さっき、お部屋から声がしたのを聞いてしまったんですが――」
 アシュカは何を耳にしたというのだろう。ナシルの胸が早鐘のように鳴り始めた。冷や
汗が額を伝い、頬の脇を流れ落ちる。
(頼むよジオ。どうか口走ってたりしないで……!)
 祈るような気持ちとは、こういうことを言うのだろうか。
「女官達が手伝っているようでしたわ。よかったのかしら。なかなか楽しそうなご様子でし
たけれど」
 アシュカが真剣な眼差しを向けてくる。
 しかし、ナシルはそれどころではなかった。安心感が一気に押し寄せてきて、逆に息
が乱れてしまったのだ。アシュカの口調にやや棘を感じたのだが、この際それは置いて
おくことにする。
「あ、ま、まぁ、罰ゲームといっても、大した事ではないので……」
 シドッグの声が、いまだ動悸の静まらぬ体に伝わってきた。彼もさぞ胸をなで下ろした
ことだろう。
「そうなのですか? それならいいのですけれど」
 アシュカの口元がまだ怪訝そうに引き結ばれているのを見て、ナシルは慌てた。すぐ
にでもこの話から離れないと、この侍女はさらに追及を深めるだろう。
(え、えっと、何か……)
 目を動かして周囲を見、話題を探す。
「あ、え、えっと、あのさ」
 ナシルは、口走ると同時に、トラヴィヌスとアシュカの視線が自分へと集うのを感じ取っ
た。
(ま、まずい……な、何も思いつかない――)
「ヤン殿は、今日もいらっしゃらないのですか」
 焦りを察したのか、シドッグが横から助け船を出してくれた。
 ナシルは二人の視線から解放されて、こっそりと安堵の息を吐く。
 ――ヤン。
 ナシルも、その名前をよく知っていた。
 何年か前から、ラディンス王国第二王子トラヴィヌスの、護衛官の役目を任じられてい
る若者である。彼について、ナシルはそれくらいしか知っていることはなかった。何しろ、
宮中で見かけたことはあっても、話したことはまるでないのだ。
 ただ一つ、ヤンについて付け加えることがあるとすれば、ナシルはその名を聞くと、胸
の内に何となくしこりを感じるということだった。主人であるトラヴィヌスの横で、それまで
どんなに朗らかに笑っていようとも、ひとたびナシルの姿を認めれば、彼の青色の目
は、がらりと表情を変える。あれはどう見ても、「主人の弟君」を眺める目付きではない。
あの、微塵も親しみの感じられない眼差しは、まるで――。
「あいつには、野暮用を頼んでいるのでな。当分帰ってこないと思うぞ」
「『野暮用』って?」
「……ああ。お前達には言ってもいいのだがな。宮殿のなかは、監視の目が多くて困る」
 ナシルは、異母兄の言葉と同時に場に落ちた、凍り付くような沈黙を敏感に感じ取っ
ていた。
 ――あれは、何年前のことだっただろう。
(ジオが来る少し前だから、三年前ぐらいかな?)
 そう、今からおよそ、三年前。
 先帝ラグリオフ=エガ=ラディンスが、治世十年目にして、突然の崩御を遂げた。壮大な
葬礼が執り行われた後、広大すぎる領土と、五千万を超える民の命とが、三人の王子
たちの元に残された。
 玉座をめぐる諍いが起こったのは、それからまもなくのこと。
 ラディンス王国の王位継承は、先代の帝王の指名に基づいて《立太子の儀》が行われ
ていることを、第一条件とする。しかし先帝ラグリオフ崩御のとき、いまだ《立太子の儀》
は実施されてはいなかった。王位継承の可能性を持つ「王子」はいるものの、次代継承
の権利を持つ「王太子」はいなかったのだ。
 ラグリオフ帝の遺志が記された書状を見つけ出そうと、各人が躍起になったのは言う
までもない。宮殿内の部屋という部屋を引っ繰り返すような騒ぎになったことを、ナシル
は今でもはっきりと思い出せる。上を下への大騒ぎは数週間にわたったが、結局ラグリ
オフ帝の遺志を明らかにするものは発見されなかった。書状自体は多数提出された
が、何より筆跡がラグリオフ帝その人のものでないものばかりだったのだ。
 その段階になって、人々の目は、王位継承の二つ目の条件のほうへと向けられた。
《立太子の儀》で晴れて「王太子」となった王子が、正式に王位につく際に行われる儀式
――《戴冠式(たいかんしき)》である。王太子こそいないが、王子の一人が形式的にで
も《戴冠式》をあげることができれば、玉座が空いているという忌避すべき状況から脱す
ることができる。王国の将来を案じる人々が、そんな風に考え出すのも、自然の流れと
言えた。
(でも、結局戴冠式はできなかったんだよね)
 理由は、一つ。
 《戴冠式》を行うための役者がそろわなかったのだ。次代の王位を継ぐべき者の他に
必要な、もう一人の人物が。
「……では、《聖地》へ?」
 問いかけるシドッグの翠色の目が、ひどく真剣な光を放つ。
 対するトラヴィヌスは、ふっと口元を弛ませただけだった。自分と同じ色の瞳のなか
に、意味ありげな微笑を見付け、ナシルはシドッグの問いが正しかったことを知る。
 戴冠式に不可欠なもう一人の人物――《大巫女》。王宮の礼拝堂を含む、王国の各地
に点在する聖堂・礼拝所の聖職者すべてを統括する存在である《大巫女》こそが、王太
子の頭上に王冠をかぶせることのできる唯一の人間だった。
 先帝ラグリオフの遺書が発見されなかったと分かったときの、第一王子シャルドゴー
ルの行動は素早かった。《大巫女》のおわす《聖地》へ早馬を飛ばし、すぐにでも戴冠式
を執り行うつもりである旨を打診したのである。第二王子トラヴィヌスの使者も即座に後
を追ったが、しかし、この両方に対して、《大巫女》はおろか《聖地》からさえ、何の応答
もなかった。
 以来、《聖地》の者たちの意向が全くつかめぬまま、ラディンス王国の次代の王位をめ
ぐる争いは、膠着状態を迎えたのだった。
(兄様は、ヤンに聖地の様子を探らせに行ったんだ……)
 彼の言う『監視の目』とは、第一王子シャルドゴールを推す一派のことに他ならない。
「《聖地》は遠い。帰ってくるまでに、まあ一ヶ月はかかるだろうな」
 トラヴィヌスのつぶやきが耳に届く。
 場には重苦しい沈黙が落ちたままだった。シドッグとアシュカは口を開く様子はない
し、ナシル自身も次に発すべき言葉が見つからないでいた。
 と、その時。
「オーイ! 終わったぞォ!!」
 聞き覚えのある声が、その声量でもって沈黙を突き破った。
 見ると、ブラウンの髪をなびかせながら、『罰ゲーム』を終了したらしいジオが、飛ぶよ
うに走り寄ってきていた。脇に抱えられた弓が、いかにも邪魔そうに見えてしまうのは気
のせいだろうか。
「お前たちも十分に気をつけるのだぞ」
 そばで聞こえた異母兄の声に、ナシルは弛みかけていた頬を引き締めた。
 全くの不本意ながら、ナシルを次期国王へと推す者もいない訳ではないのだ。こうして
馴染みのあるトラヴィヌスはともかく、シャルドゴールの一派にとって、自分は邪魔者以
外の何者でもないだろう。
 ナシル自身も、王位継承をめぐる争いの一員であることは、偽らざる事実だ。
「……分かってる」
 ナシルは大きくうなずいた。
 今まで狙われたことは幾度かある。それは得体の知れない魔術師であったり、手練れ
の刺客であったりと内容は様々だが、すべてシドッグとジオが追い払ってくれていた。
「私の命尽きるまで、ナシラウス様をお守りする覚悟でおります」
 シドッグが、横で決然と言い切った。
「ああ、頼んだぞ」
 ナシルは、異母兄の視線が、シドッグの剣帯に差されている長剣に真っ直ぐに注がれ
ているのに気がついた。
(兄様は、シドッグの剣の腕を信頼してる――)
 彼の、剣士としての技量を否定する者など、きっと帝国中のどこを探しても見つからな
いだろう。シドッグは、《剣豪》という称号を、ほしいままにしていた。
 ジオの弓矢の腕も確かだ。一国の王子に、勉学だけでなく武芸をも教授する任務に就
いているだけはある――ナシルは、彼の弓から放たれた矢が、遙か遠くの板きれを貫
通してゆくのを目にしたことがある。
「待たせたねェ。……あッ! 殿下、申し訳ありません、はしたない所をお見せして」
 木漏れ日の降り注ぐなか、ようやく到着したジオも、立て膝をついて頭(こうべ)を垂れ
た。
「ジオ、どうだった、罰ゲームは? ちゃんとこなしてきたか?」
「え? ば、罰ゲーム、ですか……?」
 ジオがきょとんとして問い返すのに、ナシルは再び頬を引きつらせる羽目になった。
「ヤダなァ。あれは罰ゲームなんかじゃな――おぶッ!!」
 突如、ジオの身体が派手に横に転がった。
 彼の背中を足でつついて、それとなく知らせようとしていたナシルは、驚いて片足を浮
かべたまま動きを止めた。
(シ、シドッグ、何て事を……)
 実はシドッグが、トラヴィヌスに見えないように、素早くジオを蹴飛ばしたのだ。
「ど、どうしたジオ。突然転んで……?」
 親切なトラヴィヌスが、慌ててジオの元へと駆け寄っていく。
 どうやら、シドッグの挙動には気づかなかったらしい。
「……ナシル様、ジオが余計な事を言う前に、さっさとこの場から退散しましょう」
 下から、シドッグのものらしい小声が聞こえた。
「壁の足跡の件もありますし、何より、アシュカさんが今にもはち切れそうです」
(わ、忘れてた!)
 ナシルは、ここでようやく、白壁に残るでかでかとした足跡と、その犯人の登場を決し
て喜んではいないだろう侍女の存在を思い出した。恐る恐る視線を動かして、なぜか小
刻みに震え続けている小さな拳と、強く噛みしめられた口元に出会ってしまい、慌てて目
を逸らす。
「わ、わわ分かった」
 それからのシドッグの行動は稲妻のように速かった。
 立ち上がったかと思うと、一目散にジオの元へと走り寄っていったのだ。
「トラヴィヌス様、お見苦しい物をお見せして、申し訳ありません。実は、ジオは今ぎっくり
腰でしてね。立て膝の格好はいささか辛かったのでしょう」
 どこから思いついたのか、シドッグはすらすらと淀みなく言い切った。
(シドッグ、昔詐欺師だったんじゃあ……?)
 ナシルは呆れるより先に感心してしまった。
「『ぎっくり腰』だと? 何と……それは悪かったな、ジオ。大丈夫か?」
 ジオは、トラヴィヌスの優しい言葉に涙目で何度もうなずいていた。
 ぎっくり腰が――いや、シドッグに蹴られた腰が、相当痛むらしい。
「さて」
 シドッグが口を開いた。
「ナシル様、ジオ。そろそろ行きましょう。昼になっては困りますからね」
(昼!?)
 ナシルはぎょっとして、思わず空を仰いだ。
 葉が擦れ合い、そして離れる瞬間に、目を見張るほどに澄んだ群青色が見えた。眩い
光の線で縁取られた純白の雲が、見渡す限りの舞台を気持ちよさそうに渡っていく。そ
こに太陽の姿は見出せなかったが、木漏れ日の差し込む角度から見て、まだ昼ではな
いようだった。
 とはいえ、もっともアリデラが賑わいを見せる時間にあの街に下りるのは、得策ではな
いだろう。
「まあ、シドッグ。ジオは腰を痛めているというし、少しゆっくりしていったらどうだ?」
 気づくと、ジオの腕をつかんで立ち上がらせようとしているシドッグを、トラヴィヌスが引
き留めようとしているところだった。
「いえいえ、ぎっくり腰は、ただ単にこいつの鍛錬が足りないだけなんです。教育係として
あるまじき行為ですよ」
 シドッグは忙しなく口を動かしながらも、ジオの腕を引っ張り続けている。ジオも、何か
言おうと口をぱくぱくさせていたが、その度にシドッグが彼の腕をつねっているらしく、何
も言えずにいるようだった。
 そこへさらに畳みかけたのが、彼を天敵とも嫌う、侍女のアシュカ。少女らしい小さな
唇から放たれた言葉は、氷のように冷たかった。
「情けないにも、程がありますわよね」
 ジオの表情が凍り付いたのは、言うまでもない。
(何か、もうめちゃくちゃだね。哀れ、ジオ)
 ナシルとしては、苦笑するほかなかった。かなり、というよりは非常に可哀想だが、不
祥事を知られるより、よほどいい。
「行こう、二人とも。じゃあ、兄様、アシュカ、行ってきます」
 ナシルは踵を返した。哀れなジオを、もう見ていられなくなった為だ。
「分かりました。ほら行くぞ、ジオ。それじゃあ、失礼します」
「あ、ああ。気をつけてな」
「行ってらっしゃいませ」
 ナシルは、トラヴィヌスとアシュカの声が遠ざかるとともに、何か重たい物が地面を引
きずられるような音が背中に近づいてくるのを感じ取った。
 しかし、あえて振り返ろうとはしなかった。
「ぎゃ、ぎゃおうッ! いでェッ!!」
 悲痛な叫び声が絶えず耳に届いていたから。そして、その声が誰のものかも、ちゃん
と分かっていたから。
 二つの足音と、重い物が地面を擦る音と悲鳴とが、一直線に門へと急いだ。





第一章 U End



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