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─Ⅱ─
ナシルとシドッグが向かった先――《裏庭》には、先客がいた。
木立を抜けた向こう、立ちはだかるような白い壁の前に、ちょこまかと動く人影が一
つ。木漏れ日に照らし出された小道をシドッグと連れだって歩きながら、ナシルはうーん
と首を傾げた。
《裏庭》は、王族の住まう本宮の外れにある。大きさこそ相当なものだが、場所柄、王
族とその側仕えの者しか足を踏み入れることはない。さらに、側仕えの者も、王族と同
行でないと、そうそう入ってはならないという、暗黙の掟がある。
今はあまりにも遠く、姿形は判然としないが、人影は王族の一員ではなさそうだった。
どうもナシルと同じくらいの小柄のようなのだが、王族には、ナシルほど小柄な者は、彼
自身を除いて一人もない。
人影のそばに、同行している人間が見あたらないことを確認して、ナシルは傍らを歩く
青年を見上げた。
「シドッグ。あれ、誰だと思う?」
日差しを吸い込んだ若葉の緑がいちだんと映える春の日、シドッグの瞳は、若葉のよ
うに澄んだ翠色になる。シドッグは、しばらく思慮深げにその瞳を真っ直ぐ前に向けてい
たが、不意に口を開いた。
「黄色の服で赤いボンネットが見えます。どうやら、女官のようですね」
「女官……!?」
王宮で働く女官たちは、薄い黄色の簡素なワンピースを身につけているのが常だっ
た。女官たち以外で王宮にいるのは、王族と貴族と、あと屈強な兵士たちだけ。王族や
貴族が一人でいるとは考えにくいし、王宮の誇る守備隊士たちが、春の花とも見まがう
色の服装を好んでするとも思えない。ボンネット(頭巾型の帽子)まで被ってるとなれば、
女官であることは明白だった。
ナシルは、人影のなかに明らかな《色》を見つけようと、再び目を凝らした。空高くのぼ
った太陽の助けを借りたものの、いまだナシルの目にはどう頑張っても蟻のエサ探しに
しか見えなかった。相変わらず、シドッグの武人たるにふさわしい目の良さには、驚かさ
れる。
「うーん、僕には見えないや。でも女官なら、何の用だろうね?」
シドッグの言う通り女官だというのなら、この《裏庭》には珍客だ。なにしろ、ここは手入
れを必要としない。まず何と言っても花壇がない――そのため、《貴婦人 のドレス》、
《王妃のティアラ》などと形容される華やか一色のほかの庭園と異なり、ここはただ《裏
庭》と呼ばれるのである。
「手を振っているようにも見えるんですけれどね」
「手を? 僕たちに?」
「背中を向けているようなので、それはないと思います。といいますか、仮にも一応王族
であり、まったく納得いかないし今でも首をひねりたくなりますが、一応次代の王位を継
がれる可能性がほんの少しくらいはありそうなナシル様に、いきなり手を振ってこような
どという無礼な輩がいるとも思えません」
「……『一応』とか『納得いかない』とか『首をひねりたくなる』とか、すごく失礼な単語が聞
こえた気がするんだけど。気のせいかな、シドッグ」
「気のせいじゃありません。まさしくそう申し上げました」
「シドーッグ!!」
王族に突然手を振る行為よりもよっぽど無礼な護衛官の言葉に、ナシルは眉を吊り
上げた。
そして怒りにまかせて紺色の軍服の袖を思いっきり引っ張ったが、相手はどこ吹く風
だった。掴み掛からんばかりのナシルにちらとも視線を投げることはせず、ただ前だけ
を見て足を急がせている。
「見ていると、何だか在りし日のナシル様を思い出しますねぇ」
「……無視したし……」
ナシルはがっくりと肩を落とした。
「何か言いました?」
シドッグは、一度自分で終わったと判断した話は、決して蒸し返したりしない青年だ。
それはいっそ清々しいほどなのだが、それも時と場合による。ナシルとしては、こういう、
彼の話を真っ向から否定したいときには、むしろねちっこくあって欲しいと思うのだが。
ナシルは盛大に溜息をついた。こんな時は、諦めが肝心な気がする。
「……何でもないよ。で、何て? 在りし日の、僕を思い出すって?」
「ええ、もう何年も前になりますが、ナシル様、あそこにラクガキなさったことあったでしょ
う? そのときの後始末の光景を思い出しまして」
ナシルは、だいぶ近づいてきた白い壁のほうを改めて眺めた。
こう遠いと、ただ白いだけの壁にしか見えないが、そこには竜や伝説上の戦士の姿を
かたどった彫刻が幾つも施されていることが、ナシルには分かっていた。生まれてこの
かた、毎日のように目にしていることもある。しかし、もし見たことがなかったとしても、見
事な彫刻の白い壁のことを聞き知っていただろうと、確信できる。
――そう、あの壁は、王族の住まう本宮の外壁なのだ。雪のように白い竜の彫刻は、
絶大な権力を象徴するものとして、この国に生きる者ならば、誰でも知っている。
そんな、民衆が夢のように思い描く美しい壁に、ナシルはラクガキをしたことがあった。
まだ、ものの分別も分からない時分に、だ。
「うわ! 何年前の話だよ!?」
ナシルは派手に顔をしかめた。
(ぞうきんでゴシゴシこするの大変だったんだよなぁ。あれだけは忘れない……)
あの頃は、側仕えにはシドッグと病弱な乳母しかいなかった。代わりに後始末してくれ
る侍女はおらず、自分で拭き取るしかなかったのだ。王子にして、壁掃除の経験あり。
そんな王子は世界中どこを探してもここにしかいないだろうが、ナシル本人にしてみれ
ば、あまり思い出したくない昔話だ。
二人はいよいよ、ナシルの目でも人影が何をしているか分かる位置にまでたどり着い
ていた。人影――もはや、それが女官の服装をした小柄な人間だと視認できていたが
――は、何やら布のようなものを持って、ひたすら壁を擦っていた。いきなりしゃがみこ
んだかと思うと、急に何度も跳びはねたり背伸びをしたりして、黄色のスカートの裾があ
ちこちにめまぐるしく翻る。
「……でも、あんなにみっともない感じじゃなかったと思うんだけど」
眼前の光景は、良心的に見ても不格好としか表現のしようがなかった。
「いえ、大して変わらないと思――」
唐突に、シドッグの言葉が途切れた。
ナシルはいぶかってシドッグの顔を仰ぎ見、そして彼の翠色の目が、大きく見開かれ
たまま真正面を見つめているのに気づいて、その視線を追った。
すると。
話し声に気づいたのか、壁掃除をしていた小柄な人物が、手を止めてこちらを振り返
っていた。赤いボンネットの下に見えた、明け方の空のような薄青色の瞳が、呆気にと
られているのが分かる。
「アシュカ!」
「ナシル様に、シドッグ様!? どうしてここに……!?」
怪しげな人影は、侍女のアシュカだった。ナシルの身の回りの世話を担当している少
女である。彼女は、普段ならば、この時間はナシルの寝室でベッドメーキングや掃除な
どをしているはずで、こんな所にいるはずがないのだが……。
「『どうしてここに』はこっちのせりふだよ、アシュカ! 何やってるの?」
ナシルが問いかけると、一瞬アシュカの眉がわずかにひそめられた。そしてアシュカ
は、しばらく、困ったように視線を揺らしていたが、不意に手に持っていたぞうきんに目
を落とすと、一つ溜息をついた。
「壁のお掃除、ですわ」
「うん。それは分かる、けど」
それは見ていたら分かる。女官服の袖から伸びた細い手に握りしめられたぞうきんを
見ても分かるし、壁際に置きっぱなしになっているバケツを見ても、明白だ。そんなこと
を知りたいのではない。
「では、どうして壁掃除を? ……あ」
ナシルが一番聞きたかったことを、シドッグが尋ねてくれた。
しかし彼は、続けて謎のつぶやき声を漏らしていた。
それを疑問に思う間もなく、答えはすぐさまシドッグ本人からもたらされた。
「ナシル様、あれを」
シドッグの長い指が、壁の一部分を指し示していた。何気なくその先を見やって、直
後、ナシルの碧眼はこれ以上はないというほどに見開かれる羽目になった。
そこにあったのは、点々と刻まれた、大きな足跡。
アシュカの頭上に見える最初の足跡から始まって、そこがまるで地面であるかのよう
に、一歩一歩規則正しい間隔で、そろって上に向かっていた。ゆっくりと足跡をたどって
徐々に顔を上げたナシルの目に、ついに終着点が映る。
(あれは――)
窓だった。
窓硝子に汚れ一つ見あたらないところと、何とも優美な窓枠がついているところは、他
の窓とまったく変わらない。ただ違っていたのは、その窓が大きく外に開いていたこと
と、カーテンが風に煽られて揺れ動いていたこと、そして恐らくもっとも重要な相違点が、
ナシルがそのカーテンの色に見覚えがあることだった。いや、見覚えがあるだけではな
い。つい先刻、見たばかりのような気がする。
ということは、この足跡の犯人は。
「……」
ナシルは、どう反応していいか分からなかった。次第に勢いを増しつつある眩暈と闘い
ながら、背中を伝う冷や汗の冷たさに、ただおののくばかり。
(ああ、ここにいたくない……)
ナシルの眩暈と冷や汗の原因は、足跡の犯人の愚かしい行為にあるのではなかっ
た。犯人の正体が判明した今、恐るるべきは、この場所にシドッグ=ラスとアシュカ=トラ
エンスという両名が揃っていることだった。方や犯人の不真面目さに毎日何らかの不利
益を被っている護衛官。方や理由はよく分からないが、犯人を目の敵にしている侍女。
もう春だというのに、この薄ら寒さは何だろう。
「つまり、あのバカの後始末をしてくださってたわけですね」
「ええ。あの腐れ外道のみっともない行動の証拠隠滅をはかっていたんです」
(く、腐れ外道って……)
「ああ、じゃああのアホが上っているところをご覧に?」
「目の当たりにしましたわ。背後から何か投げつけて差し上げようかとも思いましたが、
適当な物を持っていなくて」
(は、背後から投げるって……いやいやそれはちょっと……)
「それは残念でしたね。ええ、実に残念でなりません。でもアシュカさん、他に用事があっ
たんじゃないですか? ここ、めったに通ったりなさらないでしょう?」
(うわ! 残念を念押しした!!)
ナシルは、二人の顔を交互に盗み見るのが精一杯だった。とてもじゃないが会話に参
加する勇気など持てず、心の中でこっそりツッコミを入れて、気の毒な犯人への弁護を
はかる。
「あ、すっかり忘れていましたわ! ナシル様の忘れ物を届けに参りましたの。近道をし
ようと思ってここを通ったんですけれど、あの脳味噌すっからかんのせいで失念してしま
ってました」
(脳味噌すっからかんだって! うわ、き、気の毒……)
「そこの木の枝にかけておきましたの。申し訳ありませんがシドッグ様、取っていただけ
ますか? 私、手が汚れていますので」
「ええ、構いませんよ」
アシュカという少女は、不思議だ。
ナシルとほとんど年は変わらないのに、大人の倍以上働く。実質、ナシルの側で侍女
の役目を担っているのは彼女だけで、兄王子たちにはそれぞれ何十人も侍女がいるこ
とを考えると、勿体ないくらい有能な少女だ。王宮にふさわしい礼節をわきまえている
し、もし親の立場なら、どこに出しても恥ずかしくない娘、といったところだろうか。
ただ問題があるならば、とある男について話すときだけ、その有能さは苛烈な悪口へ
と発揮されるという事実だ。その男に対してアシュカが発した悪口だけで、一冊の本が
作られそうというのは、過言ではない。
「ナシル様、これあなたの忘れ物ですよ。……ナシル様?」
ナシルはシドッグの呼びかけを耳にして、ようやく我にかえった。慌てて声がしたほうを
振り返ると、シドッグが何やら布きれのようなものをこちらに差し出してきていた。よく見
ると、それは金色に光る丸い物が端に一つ取り付けられた、象牙色の織物。
「何?」
ナシルは、近寄って受け取った後、その織物を広げてみた。
マントだ――とすぐに理解する。
「寝台の上にありましたの。寝坊して慌てて、それでお忘れになったのかな、って考えて
いたんです」
「違うよ! ベッドの上で着替えただけなんだよ――あっ、しまった!」
ナシルは失言してしまったことに気づき、慌てて口を押さえた。
しかし、今更後悔しても後の祭りだった。既にシドッグは、ずいとばかりに近寄ってきて
いたのだから。
「――ナシル様」
「は、はい!」
肩をびくりと震わせる。
「何度注意を差し上げたら分かるんですか! いいですか、いくら面倒くさかったからと
言っても、着替えはベッドから下りてからになさい! もう、これで何度目だと思ってるん
ですか!?」
「ご、ごめんなさい……」
シドッグの眉の吊り上がり方は半端ではなかった。どうも“脳味噌すっからかん”への
怒りが尾を引いているらしい。
「私に謝っても、何にもなりませんよ」
「う、うん、そうなんだけど」
「いいですか、今度判明したら朝食抜きの処置をとらせていただきます」
「そ、そんなぁ――あ、いや、うん! 分かったっ! それでいいよ、うん!!」
ナシルは、うっかり口から出かけた不満を、慌てて呑み込んだ。シドッグが咎めるよう
な目付きでじっとこちらを見つめていたためだ。
(ぜ、ぜったいとばっちりだよ……)
手渡されたマントを肩に回しながら、ナシルはここにはいない男のことを胸中で恨ん
だ。もう、何があっても弁護したり同情したりしないと、腹に決め込む。
(もし僕が朝食抜きになったら、絶対許さないんだから……!)
憤然としながら、肩に回し終えたマントを、金色の丸い留め具できっちり留める。
ナシルには見慣れたものだったが、留め具には、とある紋章が彫り込まれていた。世
界でもっとも獰猛な動物とされている竜の姿を象った、《ラディンス王家の紋章》である。
今、この世でこの紋章を身にまとうことが許されているのは、三人しかいない。ナシル
の異母兄で第一王子のシャルドゴール=エガ=ラディンス。同じく異母兄で第二王子のト
ラヴィヌス=エガ=ラディンス。そして言わずもがな、ナシルこと、ナシラウス=エガ=ラディン
スである。
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