※
(……風が?)
いぶかって目を凝らす。するとナシルは、ふと、開けた記憶のない窓が開いている事
に気がついた。そう、開いていなかったはずなのだ!
慌てたナシルは、すぐさまシドッグのほうを仰ぎ見た。
無表情の端正な横顔──彼はまっすぐに扉のほうを見つめており、気付いている様
子はない。
ナシルは、一瞬にして体が冷えたような気がした。
これは非常事態だ、早く伝えなければならない!
椅子が音を立てる程の激しい動作で立ち上がり、シドッグのほうへと身を乗り出す。
「シ、シドッグ、窓が──」
が、ナシルのせりふは途中で遮られた。
シドッグが、鋭い、というよりはひどく冷たい視線を、ナシルのほうに向けてきたのだ。
(な、何……?)
驚いた拍子に、ナシルは椅子にどしんと腰を落とした。頭の中が真っ白になるのが分
かる。
しかし。
半ば混乱し始めたナシルに、シドッグが呆れたように言い放ってきた言葉は、突拍子
もなかった。
「……空き巣か? お前は」
「あ、空き巣?」
息を呑んで、シドッグの顔を見つめる。意味が分からない。
と、不意にナシルは、シドッグの視線が自分に注がれてはいないという事に気がつい
た。
確かに、彼はこちらに顔を向けている。そう、それは間違いない。
しかし、ナシルは全く"見られてる"という事を感じ取れないのだ。
(シドッグは、僕の頭の上を見てる……?)
ナシルはゆっくりと振り返った。
そして──
「う、う、うわああああ!!」
部屋中にこだまする程の大音声で絶叫する。
そこには、不埒な侵入者が立っていたのだ!
短く切られた、繊細な印象の細いブラウンの髪。何処か油断のならない光をたたえ
た、切れ長の翠色の瞳。そしてすっと通った鼻梁(びりょう)。
ナシルは、そのどれもに見覚えがあった。
「ジ、ジオか……おどかさないでよ……」
ナシルが安堵と不満の入り交じった溜息をつきながらつぶやくと、その、小脇に本を抱
えた紺色の軍服姿の侵入者は、にっと口の端を吊り上げた。
「よっ、ナシル。元気そうだねェ、今日も」
ジオは、そう挨拶しながら、ナシルの頭をぐしゃぐしゃとなでてきた。
ナシルは、せっかく直した寝癖頭が元に戻ってしまう事を予感して、急いで立ち上がっ
て逃げる。
「お前、朝っぱらからどこに行っていた? 随分探したけど、見かけなかったぞ」
シドッグが、こちらに歩み寄って来ながら、言った。
「あァ、礼拝堂だよ。ホラ、オレってとっても信心深いから、朝のお祈りは欠かさないワケ
よ」
対して、にこにこ顔で答えるジオ。
瞬間、ナシルは彼に疑いの眼差しを向けた。
「信心深い」なんて言葉が、誰よりも似合わないのが、この男なのだ。さらに、「貞潔で
あれ」という教えに一番従っていないのも、この男だろう。それに、そもそもジオが朝の
お祈りをしている所など、今まで一度も見かけたことがない。
「嘘をつけ」
シドッグは容赦ない。
「何でウソって分かるんだよ?」
「そんな事、お前が一番分かっているだろう。まぁ、礼拝堂に行ってた事が嘘じゃないと
しても、だ。おおかた、美人の女官でも見つけて、ついていったんだろう」
「えッ」
図星をつかれたらしい。
ジオは一瞬あんぐりと口を開いたが、次の瞬間には、なぜか頬をだらしなく緩めてい
た。
「イヤぁ、そうなんだよ。すっごい美人でさァ! なんで見落としてたかな、オレ。あんな美
人、めったに見かけないって。こう『お姉サマ』って感じで……」
ジオは、誰かが止めない限り、際限なく語り続けそうだった。
ナシルは深く深く溜息をつく。
「歩く姿も颯爽としててさァ、思わず見とれたね、アレは。名前を聞き忘れたのが唯一の
失敗っていうか。そうだシドッグ、城住まいの長いお前なら知ってるかな? ……って、シ
ドッグ、お前──」
ジオは途中で言葉を切った。緩みっぱなしだった口元が不意に引き締まる。
ナシルはいぶかってシドッグの方を仰ぎ見──そして息を呑んだ。
シドッグは、袖をまくり上げていたのだ。
ところで人間は、袖が汚れてしまうと思える時や、何か積極的な気持ちがわき上がっ
てきた時や、暑く感じた時に腕まくりをする。
さてシドッグの場合は、このうちどれでしょう、と訳の分からない事を自問しながら、ナ
シルは一歩後退した。
「お、お前、そ、ソレ何のつもりだよ……? ナ、ナシル、アレ、どどど、どういうこったァ
……!?」
尋ねられて、ナシルは慌てて首を振った。
巻き込まれては敵わない。
「し、知らない! ぼ、僕何も知らない!!」
何度も繰り返し叫びながら、急いで壁際へと移動する。
「ジオ、いいか。とりあえず一発殴らせろ」
「と、『とりあえず』って何だァ!? ってかなぜに殴る!? オ、オレは何もお前を怒らせ
るようなこと、やってないって!」
なまじ顔が整っているだけに、シドッグがその瞳に剣呑さを宿らせると、非常に恐い。
人を絶望の淵に追いやれるほどの迫力がある。
「ちょ、ちょっと待てって! ま、まず説明しろォ!」
ジオは、自分の本を置き去りにして、その場から逃げ出した。
この部屋はかなり広い──シドッグから一番遠い壁際へと、一目散に走って行く。
「自分の胸に聞いてみるんだな」
一方、ジオを追いかけるシドッグの歩みは単調だ。ゆっくりと、音もなく足を動かし続け
ている。しかも、走り回るジオには追いつけそうにない程に遅い足取りだ。
なのに。
ナシルの目から見て、ジオは明らかに追いつめられていた。
部屋のあちこちに据えられている、食卓やら植木鉢やら椅子やらにジオの動きが制限
された事も一因だろうが、何より、シドッグのまとう不穏な雰囲気に、彼が完全に慌てて
しまった事の影響が大きいだろう。
装飾ででこぼこした壁に、ぴたりと背中を押しつけて、自身は安全な所に避難しなが
ら、ナシルは固唾(かたず)をのんで成り行きを見守った。
「オ、オレの胸は、『お前ほど品行方正な人間はいない』って言ってるぞ!」
「ほぉ。殴るの二発に増やしていいか」
「何でそうなるッ!?」
半分悲鳴になりながら、ジオが叫ぶ。
「ナ、ナ、ナシル! ぼーっと見てないで止めてくれよォ! オレ、このままだと殺される
ッ!!」
「……それもいいな」
「無表情で言うなぁッ!」
ジオは、すでに襟首をつかまれていた。
悲愴感に満ちた、まるで捨てられた子犬のような表情──。
ナシルの目には、彼の顔はそんな風に映った。同時に身につまされ、思わず声をあげ
る。
「シ、シドッグ! やめてあげてよ、可哀想だよ!」
途端に、ジオはぱあっと顔を輝かせた。
「ウ、ウン、そうだ! シドッグ、お前の手が痛くなるだけだぞ!」
ジオは精一杯に抗議している。
「──では、ナシル様」
シドッグは、同僚の襟首をつかむ手を離さずに、ぐるりと顔をナシルのほうへと向けて
きた。その顔が穏やかな笑みを浮かべている──ただし、目だけは笑っていなかった
が。
「な、何?」
「よくお考えください。深く物事を考えない短絡的思考の持ち主で、『わがまま』 と言い換
えてもいい頑固さを持ち、意味もなく情にもろく、自立の精神に欠けていて ──」
「ちょっと待って」
ナシルは途中でシドッグのせりふに割り込んだ。
「……それって、誰のこと言ってるんだよ?」
しかしシドッグは、肩をすくませただけで、何も答えてこなかった。
「まあ、それは後で分かりますよ。いいですか、続けますよ。そうそう、自立の精神に欠
けていて、挑戦したはいいが直ぐに断念してしまう根性ナシで、他には何がありますか。
……ああ、何もない所でよく転ぶ。そんな大変世話の焼ける第三皇子殿下に付き従い
──」
「やっぱり僕の事じゃないか!」
ナシルは食ってかかった。
しかし、シドッグの表情は平然たるものだ。
「どこか間違っている所でも?」
「うぅ……」
シドッグのせりふは、ナシルの胸にぐさっと突き刺さった。
そう、ナシルは自分でも、いわゆる単純バカでわがままで、すぐに人に同情し、自主性
に乏しくて、根性ナシだという事を自覚している。ついでに、よく転ぶという事も、きちんと
頭の中に汚点として記憶されているのだ。
だから、悔しいが何も言い返せない。
「はい、続けます。その皇子殿下に付き従ってですね、私は色々と尽くしてきているつも
りなんですよ。ええ、きっとそうだと思います。それでですね、給料を受け取ると、『ああ、
苦労が報われたなぁ』って感じるんです。それがですよ! 全て── そう、全てがで
す! どうしようもない友人のせいで、消えてしまったんです!」
シドッグの訴えるような眼差しを見返しながら、ナシルは思いを巡らせた。
常識的に考えてみて、どうだろう。
どちらが悪いか。それは、考えなくても、ジオが悪い。これだけは否定のしようがない。
では、シドッグに殴る権利があるかどうか。こんな風なお金に関わる問題は、人間関
係にひびが入りかねないほど重大な問題だと、聞いたことがある。 これで絶縁状態に
いたる者たちも世の中には少なくないらしい。
(そこまでの事をされて、縁を切ろうとしないシドッグのほうが、世間的には変なんじゃな
いかなぁ)
とはいえ、シドッグが一発殴るだけで許すと言っているのだから、それでいいのではな
いだろうか。
「えーと、それなら、一発だけ許す」
途端、遠くから反対の声があがった。
「ちょっと待てェ! ナシル、オレの味方じゃなかったのか!?」
ナシルは、それに対して、ぽりぽりと頬をかきながら答えた。
「……うん。でもジオ、けっこうひどい事やってるみたいだし」
「ひどいコト?」
「うん。付けとか、シドッグの名前使って、博打したり、借金したり、とか」
瞬間、ジオの表情から悲愴感が消え失せた。
代わりに浮かんだのは、案の定と言うべきか、愕然とした表情。
「ナ、ナシル、どうしてそれを!」
元々色の白いジオの顔は、いまやさらに蒼白になってしまっている。彼の表情の余り
もの変貌ぶりに、少し気の毒になり始めたナシルは、気まずいような感覚がして、ただ
頬をかいて黙り込んだ。
しかし。
「……付けと博打はともかく、借金は昨日初めてやったってのに、何でばれてるんだ?」
「え」
聞こえてきた予想外な言葉に、ナシルは思わず目の前の呆然としたままの青年を見
上げた。
どうやらジオは、昨日しでかしたばかりの悪事が判明している事に対してだけ、 驚い
ているらしい。
(は、反省してない……!?)
しかし、当の被害者シドッグは、その事に頓着した様子はなく、静かに口を開いた。
「ああ、そうみたいだな。じゃあ昨日はなぜ借金したんだ?」
「そ、それは生活費に……」
「生活費!?」
シドッグとナシルの声が重なった。
ジオは直ぐにしまった、という風に口を押さえていたが、どう考えても後の祭りだった。
「お前さぁ、この前給料もらったばっかりだろ? 何で生活費が足りないくらい切迫してる
んだよ」
「えっと……だ、だから、賭場で調子に乗って……あ、有り金ほとんど使い果たして…
…」
ジオの声はいつになくか細い。
対して、シドッグは、眉をぴくりとも動かさず、彼の肩をポンポンと叩いた。
「まぁ、これでお前は、殴られても仕方ないってことを認識したわけだ」
「……え? あ、あァ、おう、まァそうなるな」
ナシルは、ただ、硬直しきったジオと無表情なシドッグとを交互に見て、息をひそめる
事しかできない。
が、次の瞬間。
「じゃ、歯食いしばれ」
シドッグの拳が唸った。
反射的に首を竦ませたナシルが次に目にしたのは、シドッグより少し背丈のあるジオ
の体が、軽々と吹っ飛ぶ姿だった。
拳を一発入れるだけで、こうも軽々と人を圧倒する者は、そうはいないだろう。しかし
同時に、そんな力を有した者の打撃を食らった者も、卓越した武芸の持ち主だった──
ジオは、衝撃を受けながらも、空中で体をひらりと回転させていたのだ。紺色のローブ
の裾が、空中で大きくひるがえる。
そして、腰を落とした格好で、ジオは見事に着地した。
ナシルは、思わず二人に拍手を送りたい衝動に駆られたが、今はそういう状況ではな
いと思い直した。
何にしろ、この二人は、間違いなく自分付きの護衛官長と教育係だ。
その事だけは、誇りに思っていい。
「……お前って、殴ってもすぐに立ち上がるから、あんまり殴る意味感じないんだよなぁ」
なにやらしみじみと、シドッグが呟いている。
ナシルが見ると、彼の表情に穏やかな笑みが浮かんでいた。おそらく、これが彼の今
日初めての笑顔だろう。
ナシルは、元の調子に戻ったシドッグの様子に安堵の溜息を洩らした。
ジオが、立ち上がりながら、ヘヘと小さく笑ったのを、目の端で捉える。
「とりあえず何だ、次回の給料日でいいから、借金と付け、返済してくれよな?」
「あァ、分かった」
「うーん、でも、それだけじゃ何だか物足りない気もするんだよな。何かやってもらうか…
…」
「何かって?」
シドッグの視線が彼の周囲を移動した。
ジオに何をやってもらおうと言うのだろう。ナシルは少しどきどきしながら、彼の言葉を
待つ。
「──そうだな、この部屋の掃除を頑張ってくれ」
「掃除!?」
ジオは目を見開いたようだった。
ナシルも驚いて、目をぱちくりさせる。
「ンでも、いつも女官達がやってくれるんじゃなかったか?」
ジオの言う通りだった。ナシル達がアリデラの街に下っている間、女官がこの部屋を
丁寧に掃除してくれるのが常なのである。
しかし、シドッグは口元を緩ませただけだった。
「だから、やるんだよ。女官達がやる事がない程、完璧にな」
「で、でも、アリデラ散策はどうすんだ? 遅くなっちまうぞ」
ジオから、即座に抗議の声があがる。
無理もない。この部屋は一人で掃除をするには、少々広すぎるのだ。
「ああ、それは……」
唐突に、シドッグはナシルのほうへと顔を向けてきた。
「ナシル様、今日は少し遅くなってもいいですか?」
「え……あ、それは──」
答えようと口を開いたナシルは、シドッグの横に立つジオが、その瞳に哀願の色をにじ
ませているのを見た。
うなずかないでくれ──彼は、そう言っている。
その返答として、ナシルはにこっと笑った。今までしたことがないくらいの、優しく清らか
な微笑みを浮かべてみせた。
ジオの表情が明るさを取り戻すのを、しっかりとその碧眼で確認してから、口を開く。
「うん、全然構わないよ! 行ければいいんだもん」
途端に愕然として表情を失ってゆくジオを、今度はさらに優しげな微笑みを浮かべな
がら、見つめる。
「そういうことだ、ジオ。じゃあな、応援しとくよ」
シドッグの声に、ナシルは先刻まで座っていた椅子に走り寄って、そこに立て掛けられ
てあった一本の剣を拾い上げた。そしてそれを、剣帯に差す。
「えーっと、じゃあ、僕たち裏庭で待ってるからねー」
「……あァ、分かった……」
虚ろな声で承諾したジオをその場に残し、ナシルは、シドッグと連れだって、部屋をあ
とにした。
第一章 T End
*Illust by (C) ryoubou.org 2008*
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