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 少年は考えあぐねていた。
 まるで今悩んでいる物事が、少年の人生に大いに関係があるかのように、真剣に考え
込んでいた。
「どうしよう、決まらないや……」
 悩ましげに呟きながら、頬をかく。
 少年は、一目で高貴な身分の者と分かる、上等な布地で仕立てられた衣装を身につ
けていた。きっとこの衣装ならば動きやすいに違いない、と想像できる程の軽装だが、
それだけは分かる。
 布地自体も軽い素材らしく、少年がかすかに手足を動かすたびに、袖やら裾やらが大
きく揺れ動く。といっても、少年は椅子に腰を落ち着かせているため、衣装もそうそう目
立った動きはしていなかったが。
「うーん、弱ったなぁ」
 少年が首をひねると、短く切られた蜂蜜色の髪が、ふわりと舞い上がった。
「どっちでもいいんだけどなぁ」
 少年の、空の青を切り取ってきたような瞳は、眼前のテーブルの上に注がれている。
 “テーブルの上”とは、これすなわち。
「どっちから手をつけよう?」
 卓上には、空の皿三枚含め、総計五つの食器が並んでいた。他の二つの食器はと言
えば、それぞれ少しずつ食べ物が残っている。
 フォーク片手に、少年はうんうんと唸り続けていた。
「どっちも好きなんだけど、うーん……」
「──と思います」
 不意に、少年の耳に男の声が届いた。
 少年は我に返り、慌てて顔を上げる。
「ごめん。聞いてなかったや。何て言った?」
 少年は、部屋の片隅にひっそりと立っていた給仕に、目を向けた。
 今この部屋には、少年とこの男しかいない。先刻の声の主がこの給仕だということは
明白だった。
「いえ、申し訳ありません。『もうそろそろシドッグ殿がお越しになる頃合だと思います』
と、申し上げたんです」
 ──シドッグ。
 その名を耳にした瞬間、少年は背筋を正した。ついでに、フォークもしっかりと持ち直
す。
「も、もうそんな時間?」
「はい、そうです」
 途端、少年の喉がごくりと音を立てた。
(も、もう迷っている場合じゃない……!)
 少年は、慌てて手元の皿に残っていたおかずを口に含んだ。
 厨房の者には悪いが、悠長に味わっている場合ではないのだ。このままだと、『朝食
にどれだけ時間を費やしているのですか!』などと、眉を吊り上げたシドッグに叱られて
しまうのだから。
 ラディンス王国の第三王子付き護衛官長のシドッグを怒らせたら恐いという事は、もう
六年の付き合いになる少年が、世界中で一番よく知っている。
「え、えっと、牛乳もらえるかな」
「はい、ただいま」
 給仕は、すぐさまグラスに牛乳を注いでくれた。
 少年はそれをひっつかんで、一気に中身を喉へと流し込む。
(ここまで来たら、もう行儀作法がどうのこうのと気にしても仕方がない、いや、意味がな
い!)
 高位の者らしからぬ事を考えながら、少年は大急ぎで食事を進めた。
(シドッグがここに来る前に食べ終わる!)
 少年にとっては、まさに時間との勝負だった。これ一つで運命が変わってしまう。それ
ほどの真剣な面持ちで、ひたすら手と口とを動かし続ける。
 決死の覚悟で臨んだせいなのか、元々残っていたものが少なかったからなのか、数
分後、少年は無事におかずを平らげてしまう事ができた。
 無事──そう、少年は時間との勝負に勝ったのだ。
 そして、少年が深く安堵の息を洩らし、足を投げ出した、ちょうどその時だった。
「ナシル様、シドッグです。失礼します」
 聞き覚えのある低い声とともに、部屋の扉が開いたのである。
「ど、どうぞ……」
 少年──いや、ナシルは、慌てて椅子にきちんと座り直した。もう食べ終わってるのに
関わらず、いつもの癖のためか、胸の鼓動が早くなっていくのが分かる。
 ナシルは、対処法として、とりあえず扉のほうは見ないように努めた。自然と、視線は
部屋の壁へと移動する。
 雪を思わせる純白の壁。その上で、金泥で装飾されたのだろう、優美な花や草木や鳥
たちが、光輝燦爛(さんらん)としながら、自身の存在を主張している。それは、誰の目
から見ても感嘆せずにはいられない、華麗なまでの芸術だった。
 しかし、緊張しきった今のナシルを落ち着かせるには、その華麗さはまったくもって意
味をなさない。
 観念したナシルは、扉の陰から現れた、短く切った栗色の髪の青年に、おそるおそる
目を向けた。
「お、おはよう、シドッグ……」
 糊(のり)の利いた紺色の軍服を身につけたその青年は、なぜか威圧的な気迫を伴っ
て、ナシルのほうへと近づいてきた。
「おはようございます」
 それきり、会話がぶっつりと途絶える。
(お、怒ってる!? ぼ、僕何か悪いことしたっけ……?)
 シドッグの顔を正面から観察する勇気が持てなかったナシルは、近くまでやって来た
彼を、怖々盗み見た。
 普段なら、その整った顔立ちと、穏やかで落ち着いた翠色の瞳のためか、優しげな印
象を与える好青年なのだが──。
 ナシルの予想通り、シドッグの眉は吊り上がっていた。しかし、予想は当たったもの
の、まったくうれしくない。
「ぼ、僕自覚ないんだけど、怒らせたのなら、あ、謝っとくね……」
 シドッグの表情を窺(うかが)いながら、話しかけてみる。
 しかし、彼は眉一つぴくりとも動かさなかった。"微動だにしない"とは、まさにこのこと
だろう。
(じ、自覚がないって言ったのが、悪かったのかな?)
「えっと……あ、そうだ! い、一年くらい前の話なんだ、けど……シ、シドッグが大切に
してた、あ、あの本ね、水浸しにしちゃったの……ぼ、僕なんだ! そ、それから、え、え
ーっと、うーんと……あ、あとこれは、シドッグが僕に、つ、仕えるようになった時だから
……えっと、だいぶ前だけど、ブ、ブーツ隠したの も、ぼ、僕なんだよ! ご、ごめんなさ
い!」
 ナシルは半ば悲鳴をあげるような感覚で告白した。
 大昔のことを引っ張り出してきたのは、一応最近は怒られるような事をした記憶がな
いからだ。そう、この頃は、ナシルは自分が一国の第三王子であるという自覚を持ち始
めた──というよりは、シドッグに叱られないように努めだしていたのだ。
 しかし。
 シドッグは深い溜息を一つついただけだった。
 ナシルは、冷や汗が背中を一筋伝い落ちていくように感じた。頼むから何かしゃべって
よ、と叫び出したい気持ちを、懸命に抑える。
 と、ナシルは、シドッグが怒っている原因は、自分ではないのではないか、ということに
思い当たった。
 とりあえず、非常に長いらしい食事時間の件を除けば、最近、ナシルは悪い事をした
つもりは全くない。知らないうちにやってしまっているかも知れないが、シドッグを黙り込
ませる程の事はしていないはずだった。
 ということは。
 ナシルは、いつもならシドッグと共にここに現れる、もう一人の青年の姿が見当たらな
いことに、ようやく気がついた。
 そして、同時に合点が行く。
「……ジオが何かやったの?」
 すると、案の定、シドッグは片眉をぴくりと跳ね上げた。そして、目だけをこちらへと向
けてくる。
 ナシルは、その視線の鋭さに一瞬体を震わせたが、自分が怒られているわけではな
いと思い直し、シドッグの目を見返した。
「いいえ、特にあいつが変な事をしたわけじゃないんですよ」
 シドッグは静かに口を開いた。
「で、でも、シドッグは怒ってるだろ……?」
「いえ、怒っているわけではなくて、ただ単にあいつをぶん殴りたいだけなんです」
「そ、そうなんだ……」
 それが怒っているって事じゃないか、と胸中でこっそり反論しながら、ナシルは笑って
ごまかす。
「それで、怒っている理由は?」
「理由、ですか?」
 シドッグは小さく笑ってから続けた。
「あいつが日常的にやっていた事に、私がようやく気づいたっていうだけなんです。たと
えば、買い物をした後、私の名前で付けにしていたり、私の名前を名乗って、何ですか、
俗に言う『娼家』ってやつですか? そこに出入りしていたり、博打をうったり、借金した
り、とまぁ、色々ですね」
 シドッグは抑揚の全くない声で、穏やかそうに言葉を紡いでいる。
「ジ、ジオ、そんな事やってたんだ……」
 ジオという青年は、様々な意味で遊び人だ。本人が、"遊び"と名のつくものは一通りこ
なしてきた、と自負していた事があるが、まさにそんな感じである。
 とはいえ、シドッグの名前を勝手に使って、そういう事をしていたとは、ナシルは知らな
かった。
「そ、それはいくらなんでも──」
(やっちゃいけないだろう……)
 そもそも、ナシルはその"遊び"というものが、あまり理解できていなかった。
 世の中には、“ショウカ”という所や、“ばくち”という行為が存在する事は一応知っては
いるが、それらがどういう物なのかという事は、はっきりとは分からないのだ。ただ、そ
れらは大っぴらに口にしてはいけない言葉だという事は分かっているのだが。
「まぁ、そういうわけで、ジオ探しているんですけどね。見つからないんですよ」
「出かけて──は、いないよね。朝ご飯の後はアリデラの街に下りるって、分かってるは
ずだから」
 ナシルは、最近、ここ王宮から、城下のアリデラの街に下りることを朝の日課としてい
る。皇子付きの教育係の任に就いているはずなのに、ナシルに教育をあまり施そうとし
ない、職務怠慢人間のジオも、これは楽しく思えるらしく、いつもついてきていたから、朝
には宮殿にいるはずなのだ。
「ええ。恐らくは」
 ふと気づくと、給仕が卓上の食器を片付けようとしていた。
 ナシルは何とはなしにそれを目で追いながら、口を開く。
「ジオ、気づかれたって事知らないの?」
「ええ。だから、ここで待っていたら来るだろうと思いまして」
 ジオは、行った瞬間に殴り飛ばされるなどとは夢にも思わずに、いつものように笑顔で
やって来るに違いない。少しかわいそうだが、言ってみれば自業自得である。
 ところでナシルの経験上、シドッグの怒り方というのは、三段階ある。
 まず少し怒った時。この時、彼は怒鳴る。例をあげるとすれば、ナシルの非常に長い
食事時間がこれにあたる。
 そして、さらに怒りを感じた時。この時は、彼は苦笑する。しかしこの場合、彼の目は
まったく笑っていないので、相当恐い。慣れていない人間だと、腰を抜かしてしまうだろ
う。
 最終的に、どうしようもない程怒った時、彼は急に静かになる。普段もどちらかと言うと
落ち着いた話し方をするが、その時だけは口調に陰気さを伴うのだ。
 そして今、彼は静かだ。しかも、話し方に何となく暗さが感じられる。
 つまりは、言わずもがな、シドッグはどうしようもないくらいお怒りなのだ。
「ナシラウス様、それでは失礼いたします」
 給仕が食器類を乗せたカートを押して、静かに退出していった。
 彼の背中を見送りながら、ナシル──本名ナシラウス=エガ=ラディンスは、一つ息
をついていた。
 特に意味があったわけではない。ただ、急に疲労感を覚えたのだ。
 そう、疲労感──ナシルは、長大なテーブルの傍らに立つシドッグの横顔に、ちらっと
視線を投げかけた。
 とんでもなく怒った彼と同じ部屋にいると、何かしら不穏な空気を感じ取ってしまい、居
心地が悪いのだ。
(とりあえず、ジオ、早く来てくれないかな……)
 シドッグが、一発でもジオに痛打を与える事ができれば、この居心地の悪さは解消さ
れるはずなのだ。ナシルは、シドッグとは別の思惑から、ジオがやって来るのを心待ち
にしていた。
 二人して、今か今かと扉を注視し続ける。
 どれぐらいそうしていただろう。
 目が疲れてきたのを感じて、ナシルは扉から視線を外した。そして大きくあくびをする。
(……全然来ないなぁ。だいぶ待ったはずなんだけど)
 太陽の位置を確認しようとして、窓へと視線を走らせる。
 そして次の瞬間、ナシルの青い瞳がとらえたのは、陽射しに白く透き通ったカーテン
の、音もなく揺れ動く様だった。





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*Illust by (C) ryoubou.org 2008*