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今宵の月の、何とも華やかなこと。
満ち足りたように輝く月よ、三百年の時を生きるわらわの目にも、そなたは何時も変わら
ぬ見事さぞ。
深き闇に蠢く樹陰たちも、今宵の澄み渡る月影の見晴るかしには、よもや叶わぬらしい。
強く清かな光にあてられて、こそこそと怪しげな枝葉を隠し、低く形を潜めて息を殺している
様の、実にみすぼらしいことよ。
このように月のさやけき晩には、一本歯の高下駄にて松の小枝の先に立ち、内腑を焼く
と聞く濁り酒を一息に呷るのがよい。酒気に火照った頬を撫でる夜風は心地よく、その瞬
間に眺める月は、また格別の趣きに違いあるまい。そうして夜通し月を肴に楽しんで、東の
空を染める朝焼けに、最後の杯を傾ける。
「あの、弓月様」
何たる贅沢。何たる至福か!
これは、人の姿をとらねばこの世で生をまっとうできぬ者どもには、縁もゆかりもない、天
狗たる我らのみに許された特権である。許せ、人の子よ。汝らにおいては永久 (とこしえ)
に賞翫できぬ絶佳な味わい、わらわが代わりに堪能してくれるわ。
「あの、聞いてらっしゃいますか?」
せっかく好い気分で浸っているというに、先刻より傍らで何やら羽虫がきゃんきゃんと五
月蠅い。ここは一つ、わらわの威光で黙らせて――
「……誰が『羽虫』ですって?」
耳を掴まれた。
「いたたたっ! は、離さんか無礼者! そもそも、わらわは口に出して言うたつもりはない
ぞ。何故お主に聞こえておるのか!」
「私の言葉に耳を傾けてくださらないから、掴んでいるのです。それに、弓月様ともあろう御
方が、間の抜けた事をおっしゃる。我々に《他心通》の力があることをお忘れか」
「おお、そうであった。……否、待て。勝手に主人の胸の内を読むでないわ! というよりま
ず、耳を離さんか!!」
体裁も忘れて暴れると、やっと耳を引っ掴む手が離れた。
まったく、わらわの高貴なる耳朶を、遠慮もなく引っ張るとは何事か。人の子と異な り、月
も恥じらう白磁の羽毛の生えそろう我が耳は、手入れするにも一刻の時を要するというの
に。
乱れた己の耳と装束とを整えながら、我は傍らに立つ丈高い一人の同族を睨み上げた。
一目にして、同族になってまだ幾年も経たぬと分かる黒髪は、憎々しくも、今宵の月影に
映えてやけに美しく風にさらされて、其処にあった。そしてその下方で、切れ長の金色の瞳
が、「やれやれ」と溜め息混じりにわらわを見下ろしている。
「何ぞ文句でもあるか」
「いえ。あ、山ほどございます」
この男、美しく整った眉目も含め、というよりは主に其れこそが、何とも小生意気でいけ好
かぬことよ! 古来より「天狗界にこの人あり」と謳われてきたわらわが、近頃 は此奴のせ
いで噂の端にも上らぬ。
「何じゃ。聞いてやらぬでもない」
長い白銀の髪を丹念に整えながら許しをやると、男は目を細めて口を開いた。
「では、お言葉に甘えまして。先だって、『松の枝先に乗って濁り酒を呷る』と言っておられま
したが、そもそも枝先に乗るなんて芸当、弓月様には出来ませんよね?」
「うぐ……っ」
わらわは喉を詰まらせた。此奴め、いつから我が胸中に聞き耳を立てていた。
「そ、それは気分というものじゃ! その方が気持ちよかろう!」
「どうでしょう。出来もしない事で偉ぶるのは、いかがな物かと思いますが」
男の冴えきった声が、氷の槍と化して胸に突き刺さる。
事実、わらわは天狗の十八番、枝乗りが出来なかった。他の同族に比べ、確かに少々小
柄で体格が劣っているというのはある。しかし、身体能力までもが低い訳ではないと固く信
じているのだが、何故かどれほど鍛錬を重ねても、いつも枝葉からずり落ちてしまう。今、
こうして、この憎々しい男と雑草生い茂る地面に足をつけて並び立っているのも、何も好ん
でやっている訳ではないのだ。
「あと弓月様、お酒は飲めませんよね。一口でべろんべろんに酔っぱらう」
「べろんべろんって程じゃ……。た、確かに弱いが」
我ながら情けない事に、声が徐々に徐々に消えゆくのが分かる。
「宴会をやって、一番最初に寝てしまわれるのは、どなたですか。貴女ではないのですか」
「や、やや、それは知らぬぞ! 気付けばいつも寝所に戻っておるでな!」
「それは、眠り込んだ貴女を、小姓の私がいつもお運びしているだけです」
「……左様か」
「ええ」
月明かり射す山林の深奥にて、はからずも沈黙が落ちる。
恥ずかしいやら、情けないやら。夜風にさらされ冷え切っているはずの頬が赤らむ思いが
して、何だかもう、色々な事が腹立たしかった。
まだ笑われれば応じる策も思いつくが、目の前のこの男は、眉一つ動かさぬ無表情。し
かもまた、その引き締まった薄い口元が、宵闇と月影の妙技にてまるで蠱惑するかのよう
に映えて、いちいちわらわの癇に障る。僅かでも笑みを浮かべれば印象がまた違ってくる
だろうに、この男はいつ何時も愛想笑いをせぬし、冗談の一つも言わぬのだ。
まったく、他の女天狗どもの気が知れぬ。この嫌みったらしい仏頂面男の何処がよいの
やら!
「もう行くぞ、小姓。お主と話していても、退屈でまっこと面白ぅないわ」
わらわは肩をそびやかして、横の丈高い男に背を向けた。高下駄打ち鳴らし、鬱蒼とした
草に白い袴の裾を取られそうになるのを懸命に堪えながら、足早に歩みを進める。
我ら天狗は、背に鳥にも勝るしなやかな翼を持ち、天空を自在に飛び行く生き物。翼を広
げるに十分な空間さえあれば、鳥たちに勝るとも劣らぬ飛行術を披露出来る。わらわは
木々の少ないひらけた場まで行き着くと、ゆるやかに背の白銀の翼を広げた。
と、その時になって、わらわはあの男が――小姓が、後について来ていない事に気が付
いた。振り返り視線を投げやると、注ぎ落ちる月光の下、翼の用意もせずに俯き凝り固ま
ったように立ち尽くす男の姿がある。
何と、月を仰ぎ見た場所より、一歩も動いておらぬのか!
「何をぼんやりしておる! もう行くと申したのが聞こえなんだか!」
わらわの張り上げた声は、夜の静寂(しじま)に甲高く響き渡った。
はっと顔を上げ身じろぎした男を眺めつつ、わらわは小さく舌打ちをする。我ら天狗は、
菩薩や仏には叶わぬものの、元より神通力を幾つか心得る。《天耳通》の力を持ち、遠隔
の地に生じた微かな物音でも感得する我らの間に、大声は不要。
しかしわらわは、あの小姓と共にいる間、こうして激昂して我を失い、見苦しくも声を張る
事が間々あった。その度に深く反省し、同じ過ちは繰り返さぬと心に誓うのだが、彼奴と出
会って十数年、その誓いを遵守出来た試しがない。元より、相性が合わぬのだろう。
男は、わらわがまろびそうになった草むらも、その均整のとれた恵まれた体躯でなんなく
飛び越えてきた。ああ、このような些細な事ですら憎々しいと思う我が心の、何とも狭きこと
よ。
「申し訳ありません! 俺は――」
男の少し弾んで響いた声を、わらわは半途で遮った。
「よい、軽口は要らぬ。行くぞ」
これ以上男の顔を見ていると、己の醜い心が鋭利な刃を伴った言霊へと変じ、口元から
飛び出しかねぬ。我ながら愛想無くそっぽを向いて、早々に翼をはためかせた。
そして数瞬の後。わらわの身は夜風に乗って、山林の遥けき上空にあった。星々のさん
ざめく紫黒色の天空の下、しばしの間ぐるり辺りを見回して、向かう方向を見定める。そうし
て、やがて暗闇に沈む山林の底のほうから、鴉の濡れ羽色に艶めく翼 が追いかけて来る
のを確認すると、わらわは大きく夜気を吸い込んだ。
さあ、我が身よ。天駆ける妖星となれ。
その言葉は囁くように、だがあまねく星空に響き渡るように、紡がれる。そして次の瞬間、
わらわの体は、勢いよく虚空を疾駆する一つの流星と化した。
宙を割る視界にほどけ飛ぶ思考の中で、わらわはぼんやりと思いを馳せる。
もし叶うならば、叶う事ならば、わらわのこの醜く愚かしい劣等の情念をも、粉々に吹き飛
ばしてくれはしまいか――。
飛ぶ度に浮かぶ願いは、しかし、誰よりもこの我が、決して叶う事はないのだと知ってい
た。
――ああ、我らを知らぬ者の為に、一つ、話をしておこうか。
我ら天狗は、人の死した後の姿である。
しかし、生前善人であった者のみが歩む、仏や菩薩の道とは異なる。畜生にも餓鬼にも
なれず、また修羅道にも地獄にも見放され、永久に抜け出す事叶わぬ煩悩と魔羅の巣食
う、極めて暗澹とした世界に棲まう。
生前の過ちから苦難の道を辿る我らを、何とかして救いたいと思うてか、はたまた更に陥
れようと思うてか。天狗道に落ちた者に、菩薩が科した処断が一つ。
それは、時に絶大な力をもって弱きを屈する悪しき者どもを、懲らしめねばならぬという
責務。その務めを果たしていれば、いつか元の輪廻に戻れるのだと確約された訳でもない
のに、我らはその口約に踊らされ、今日も今日とて住み処とする深山を離れ、悪人退治に
と人里へ下りるのだ。
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