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  お父さんの憂鬱



 予想通り。まったくもって、予想通りだ。
 時刻は既に午前を回って、一時過ぎ。電子レンジで温めなおした夕飯を箸でつつき
ながら、俺は正直言ってげんなりしていた。
 家の玄関に辿り着いた時点で、もう日にちは変わってしまっていた。夕飯をさっさと
食べ終わって風呂にさくっと入って、明日に備えて眠りに就こうと思っていたのに、そ
んな甘いもくろみは完全に息の根を絶たれてしまった。
 食卓を挟んだ真向かいに座る、ピンクのパジャマの主。そちらから濃厚なまでに漂
ってくる不穏な空気は、帰宅途中思い描いていたまったくそのまんまで、それが俺の
疲労感に拍車をかける。
 ついさっきまで、タケシの担任の先生が今度結婚することになったやら、隣の家の
奥さんが変な時間に布団を干しているやら、こちらが相槌しか打てないような話に花
が咲いていた。なのに、打って変わってこの、今の雰囲気はどうだ。
「──じゃない」
「何?」
 沈黙の中、ようやく呟くような声が聞こえて、俺は顔を上げた。目の前の、見慣れた
パジャマ姿の上に乗っかった顔は俯き加減で、表情はよく読めない。
 が。
「あなた、今年のお盆は休みが取れるって言ってたじゃない!」
 目の前の顔が勢いよく上がるのと同時に、ついに、キンキン声の雷が落ちた。
 ああ、これも予想通り──嫁の紅潮し切った顔を見つめながら、俺は胸中で大きく
ため息をつく。
「急に仕事が入ったんだよ」
 どうしてここまで予想通りなのだろう。
 深く考え込むまでもなく、原因は分かり切っている。
「去年も一昨年も、その前もその前だって、そう言ったわ!」
 そう、今の課に配属になって以来、このやり取りは、毎年恒例の行事と化してしまっ
ていたのだ。
「仕方ないだろ。俺も好きでこうなったんじゃない」
 俺は二日後に迫った盆休みがなくなった原因を思い出して、顔をしかめた。
 休み返上で出勤しなきゃいけなくなったのは、そもそもうちの会社の若い営業がな
ってないせいだった。
 お客さんにうちの製品を売り込んでいる窓口は営業なのだから、お客さんが困った
ときに頼るのは、基本営業担当の者が多い。なのに、システムは分からないだの他
のお客さんも回っていて忙しいだの、色々と理由をつけてアフターフォローをしっかり
しない。そりゃ、システム面の開発に営業が関わる事は少ないから、そう言ったこと
で分からないことも多いだろう。でも、それならそれなりの行動があってもいいはず
だ。
 今回も何だかんだと後回しにしていたせいで、完全に故障するまで放置していて、
結局技術屋の俺がお盆に駆り出されることになってしまったって訳だ。まったく迷惑
きわまりない。
 会社でひとしきり説教を垂れてきたが、まだまだ言い足りなかった。
 というよりあいつ、こっちが真剣に話している間に時計を気にしたり舌打ちしたりそ
っぽ向いたりで、聴く態度もなっちゃいなかった。ああ、思い出したら余計腹が立って
きた。舌打ちしたいのはこっちだっつーんだよ、畜生! あのバカガキが、いっぱし
の口叩きやがって。
「どうだか。あなたはどうせ、私やタケシよりも仕事のほうが好きなのよね。今回だっ
て、引き受けなくてもいい仕事、引き受けたんじゃないの?」
 飛んできた辛辣な言葉で我に返る。
 一度、二度、頭の中で反芻。そして。
「……おい、何て言った、今?」
 俺の口から飛び出したのは、必要以上に乾いた声だった。
 嫁は、仕事で休みがとれないことが多い俺を皮肉って言っただけだ。ここで怒鳴り
散らしたって、八つ当たりでしかない──。
 頭の隅ではちゃんと分かっているのに、 だんだん血が沸騰してくるのを止める事
が出来ない。気儘勝手に口が動き出すのを抑える事が出来ない。
「引き受けなくていい仕事なんて、引き受けてねえ!」
「あなたじゃなくても出来る仕事なんじゃないの? それに、お盆明けだって全然いい
じゃない!」
「いい訳あるか!」 
 営業がケアを先延ばしにしたせいで、お客さんのところにあるうちの製品は既に完
全に使えなくなっている。二日後の盆休みまで修理を待ってくれてるのは、うちと先方
との長いつきあいのおかげと、うちの製品がそう度々使うものじゃないおかげでしか
ない。本来なら、二日でも対応が遅いくらいだ。
 技術担当の中でも、一番早くに先方に向かえそうだったのが、休みを入れる予定
の俺だったのだ。
「俺の仕事を分かってないくせに、色々口出しするんじゃない!」
 思うがままに怒鳴りつけると、嫁の肩が揺れた。少し潤んだ目が見えて、俺もよう
やく落ち着きを取り戻す。
「……悪い」
 興奮して、いつの間にか立ち上がっていたらしい。ため息ついて、俺は改めて座り
直した。
 専業主婦をやってくれてる嫁に対して、仕事の内容を説明するのは難しい。取引先
との関係や、逃してはいけないタイミングとか、そういった機微は会社の中に長くい
て、ようやく身に付いていくものだ。
 若い担当の教育にすら困ってるぐらいなのに、経験のない嫁に理解してもらおうと
いうほうが無茶だろう。
「……父さん、旅行行けないの?」
 突然、予想もしなかった方向から聞き慣れた幼い声が響いた。
 俺は顔を上げ──居間の入り口に立つ、乱れたパジャマ姿の息子の姿に目を見
開く。
「タケシ、起きたのか」
「うん、声が聞こえたから」
 しょぼしょぼした目を擦る姿に、俺は壁時計を確認した。一時半。小学生が目を覚
ましている時間じゃない。
「タケシ、母さん達、大声出しちゃってごめんね。もう静かにするから、寝なさい」
 嫁がタケシに寄っていって、背中を押してやるのが目に入る。そうして部屋へと促さ
れながら、タケシは一度振り返って、真っ直ぐに俺を見た。
「ほんとに行けないの?」
「ごめんな」
「……そっか」
 タケシは呟くように言うと、驚くくらい素直に部屋へと戻っていった。
 ただ、顔を前へ戻す時に見せた沈んだ目が脳裏に焼き付いて、俺はきつく唇を噛
む。
 今年の盆休みは、北海道旅行を計画していた。タケシの勉強机の上には旭山動物
園のパンフレットがこれでもかというぐらい積まれていて、触れれば崩れてしまうほど
の高さになっていた。その一つ一つが既に随分と皺が寄って汚くなり始めていたこと
を、俺は見て触って知っていた。
 最近は夕飯の話題に出ることも多くて、タケシがワクワクしているのが肌で分かっ
て、俺自身も嬉しく感じていたのだ。
 程なく戸が閉まる音がして、俺は嫁が戻ってきたことに気がつく。
「……父さんのバカ!」
 壁越しに、くぐもった泣き声と、ぼすんと何かを投げつける音が聞こえた。
 確かめずとも、誰のものか分かる。
 嫁とお互い何も言えず見つめ合った後、俺はおもむろに立ち上がった。
「悪い、もう夕飯いいわ。後で片づける」
「いいわ。私が片づけておくから」
「すまん」
 嫁の言葉に甘えて、俺はすぐさま居間を出てタケシの部屋へ向かった。
 薄暗闇の向こう、ベッドの上で掛け布団が不自然に膨らみ、小刻みに震えているの
が見えた。電気をつけて、俺は床に散らばった動物園のパンフレットに気づく。
 俺はそれを拾い集めながら、膨らんだ掛け布団に向けて、声を掛けた。
「タケシ、ごめんな。父さんが悪かった。今度は必ず……」
「今度っていつだよ!」
 勢いよく掛け布団がめくられ、その下から泣き顔が飛び出した。
「みんなにも自慢しちゃったんだぞ! 北海道行くって! 父さんが美味しいもの食べ
させてくれるって!」
「ごめん」
 こういう時、謝ることしかできない自分が歯痒い。
 何を言っても、旅行がダメになった現実は変わらず、タケシの楽しみを奪った事実
も変わらない。
「もういいよ! 父さんなんかキライだ! 部屋ん中入ってくんな!」
 激しい叫び声といっしょに、体をぐいと後ろに押される。
「タケシ……」
「出てってよ!」
 タケシは掛け布団の中に潜り込んでしまった。
 俺はどうしようも出来ずにしばらくそこに立ち尽くしていたが、掛ける言葉はいっこう
に思い浮かんでこなかった。
「今度、本当に埋め合わせするから」
 返事一つ漏らさないベッドの上の膨らみに、同じ事を繰り返し呟く以外に出来ること
がない。子を持つ親になって、もう七年も経つというのに、進歩がない。何て──何て
無力なんだ。
「あなた、後は私が言っておくわ。明日も早いんでしょう。お風呂入ったら?」
 情けないことに、背後から聞こえてきた嫁の小さな声が、救いの声に聞こえてしまっ
た。
「……頼む」
 俺はゆっくりときびすを返した。掛け布団のほうに寄っていく嫁を見送り、風呂場に
向かってゆく。
 服を脱いでいる間、遠くから泣き声とそれを宥める声が聞こえてきた。
 去年もこういう事があったなと、俺は既視感を覚えていた。まだ幼稚園生だったタケ
シが泣きじゃくるのを俺はいっこうに宥められずに、結局嫁に変わってもらったのだ
った。
 俺に原因があるのも確かだが、こういう時子供を宥めるのに、父親ってやつはまっ
たくもって役に立ちはしない。親父が、同じことを昔ぼやいていたのを思い出して、シ
ャワーを浴びながら場違いに苦笑を漏らす。
 俺と同じ技術屋だった親父も、よく夏休みをダメにしていた。その時、どうやって俺
を宥めてたんだっけ、と思い返そうとする。
 いつか、いっしょに虫取りに行ってくれる約束がダメになった時、用意していた虫か
ごと虫取り網を親父に投げつけたことがある。親父の頬に割れたプラスチックがかす
って血がにじみ出して、俺は母さんに尻を叩かれた。でも、親父は何も怒ったりせず
にずっと謝っていたっけ……。
「変わらねえなー」
 苦笑いがこみ上げてくる。
 親父は、あの時どんな気持ちだったんだろう。息子の楽しみを奪ったのは自分で、
どう謝ってもその事実は変わらなくて、そしてそれを取り成す力も自分にはない。そん
な状況で、親父はどんな事を考えていたんだろう。
 シャワーで石鹸泡を流しながら、明日にでも電話してみようかなと俺は決心してい
た。





「もしもし」
「あ、母さん? 俺。元気?」
 翌日の夕方、俺は仕事帰りに早速実家に電話をかけていた。
「まあ、電話してくるなんて、珍しい。ちょっと最近膝を痛めたんだけどね。元気よ」
「そうか。もう若くないんだから、無理だけはするなよ」
「今度、タケシも連れて顔出しなさいな。お盆お休みとれるんでしょう?」
「あー、その話なんだけど。親父に替わってもらえる?」
「お父さんに用事? まあ、また珍しい! 最近お父さんったら、またお酒の量が増え
たのよ。貴方からも何か言ってやって頂戴!」
「分かった分かった。親父に替わってよ」
 携帯電話の向こうでごそごそと音がして、ようやく目的の人物の声がした。
「お前か。何の用だ」
「親父、また酒増えたんだって? 母さんに心配かけるなよな」
「そんな事はいい。元気にやってるのか」
「まあまあ、元気。で、話変わるんだけど。親父、昔よく夏休みなくなって、俺とケンカ
になったりしてたよな?」
 親父は突然の話に驚いたようだった。僅かに間を置いて、言葉が返ってくる。
「何だ、藪から棒に」
「俺も仕事で盆休みがなくなって、昨日タケシを怒らせてさ。親父、あの時どんな事思
ってたんだろうとか、色々思ったりして」
「……懐かしいな。虫かごで怪我をした」
「うん。あの時、どんな事思ってた?」
「お前は『僕より仕事が好きなんだ』と言い出すし、困った。だからと言って、仕事を休
む訳にもいくまい。それで首にでもなれば、路頭に迷うことになって、もっと困る事に
なる」
「まあ、そうだな」
「それで、いつか分かる日も来るだろうと、母さんに任せることにした」
「ははは!」
 それだと、俺がとった手段と、大して変わらない。
「やっぱり、そうするしかないのかね。いつか分かるだろうと思って」
「……お前は、もう分かったんだろう?」
「へ?」
「子供は可哀想だが、仕事も休めない。そういう難しい所が、お前にはもう分かってる
んだろう?」
「いや、そりゃまあ」
 自分で経験したことだ、分かって当然とも言える。
「……そういう事だ」
 子を持って分かる親心。普段滅多に笑わない親父の、茶目っ気たっぷりに笑う声
が聞こえて、気づけば俺も噴き出していた。
 ひとしきり笑った後、親父に礼を言い、俺は電話を切った。
 結局タケシにも、そういう風に期待するしかないという事なんだろうか。
 何と他人任せなとは思いつつ、もっといい方法を見つけられる訳でもない。
「はあ」
 俺は笑ってゆるみ切った頬を元に戻すと、盛大にため息をついた。
 父親って職業は、普通の仕事の何倍も難しい。


終わり 


 当作品は、競作小説企画 「夏休みの思い出」参加作品です。
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